近畿風雲抄
奈良
大和神社と山上憶良,山上憶良の詩情,大和神社の御田祭−天理市新泉町−
 天平5(733)年3月、第10次遣唐使船の大唐大使となって唐に赴く多治比真人広成に対し、山上憶良が贈った長歌・好去好来歌と反歌2首が万葉集に収録されている。(長歌は下記の全文参照) 
 憶良は、‘神代より言ひ伝え来らくそらみつ倭の国は・・・’とうたい始め、‘言霊の幸はふ国と語り継ぎ言い継がひけり・・・’と詠う。
 古代には、言葉に精霊が宿り、良い言葉には幸福が宿り、悪い言葉は凶難を得ると信じられ、旅立ちにはおめでたい言葉を連ねる「言忌」がおこなわれた。憶良は大唐大使・広成の祖先の遺勲を讃え、‘天地の大御神たち 大国魂’に往還の加護を願い詠う。
 歌中の 「倭の大国魂」は今の大和神社(おおやまとじんじゃ。式内社。天理市新泉町)に鎮座する。万葉集から好去好来歌の作歌時期をみると集中、好去好来歌の前に大伴君熊凝の死を悼んで詠った長歌(天平3(731)年6月作歌)がおかれており、筑前国司の任明けて都に戻ったころに憶良は好去好来歌を詠ったとみられる。
 さらに、好去好来歌の後書きに‘天平5(733)年3月1日良宅対面献3日憶良 謹上 大唐大使卿記室’とあり、広成は同年3月1日に憶良宅を訪ね、憶良は同月3日に広成に歌を贈った。このとき広成は大唐大使の証である節刀を賜わっていて、官位は従五位下の貴族身分。憶良の最終官位と同じで、多治比氏出自の広成は憶良より厚遇されていたのだろう。
 憶良は大宝2年(702年)、33年ぶりに再開された第七次遣唐使の少録に任ぜられ唐土を踏んだ遣唐使の経歴がある。憶良邸訪問につき、広成はどうも藤原氏とは一定の距離を保っていたらしく思想的に憶良と相通ずるところがあったのかもしれない。
 当時、本邦と新羅との関係悪化によって朝鮮半島情勢が緊張する中、遣唐使の渡海ルートが朝鮮半島西海岸を経由する北路から五島列島や沖縄・奄美を経て、蘇州に直行し長安にいたる南路に変わっていて往還の難儀は言語に尽くしえない危険なものだった。憶良が乗った遣唐使船は北路をとって渡海していて航路の厳しさに元筑前国守憶良の同情も極まったことであろう。‘値嘉ちかの岬より 大伴の 御津の浜辺に 直泊ただはせてに 御船は泊てむ 恙無つつみなく 幸くいまして 早帰りませ’と憶良は詠う。値嘉の岬は今の五島列島の福江島の三井楽ではないかと思う。そこに外航の船溜所(基地)のようなものがあったのだろうか。憶良詠歌の筑前国志賀白水郷郎歌10首の左注に‘自肥前国松浦県美弥良久みみらく埼発船’とあるので、憶良の危機感は一層増幅されたことだろう。筑前国司憶良の当時から三井楽(美弥良久)は外航の拠点となっていて後年、遣唐使船の渡海コースが南路に変わっても、そこは中継港として重要視されていたのだろう。
 好去好来歌は、子をいつくしみ、社会の暗部を詠う社会派詩人と評される憶良にして少し詩風が異なっているようにもみえる。身体は衰弱し、すぐそこに死が迫っていたにもかかわらず、広成の訪問を受け居ても立ってもおられなくなった憶良の詩魂は爆発し、少しの弛みもなく力強く歌いあげ、徹頭徹尾、憶良は好去好来歌に大御神の加護を求めたのだ。
 反歌で‘難波津に み船はてぬと きこえ来れば 紐解きさけ 立ち走りせむ’と憶良は詠う。この反歌にして憶良の面目躍如の感なしとしない。人をいつくしみ、自他昇華の威力は爆発し、万世に憶良の人間味を深く沈着させている。
 好去好来歌にみえる大国魂は大和坐大国魂神社で延喜式内社。今の大和(おおやまと)神社がそれである。祭神は日本大国魂大神、八千戈大神、御年大神の三座。神階は最高位の正一位である。境内に好去好来歌の歌碑がある。
 それにしても、憶良はなぜ数ある大和の神々中、大国魂に注目し、特別の位置づけをしたのだろうか。既述のとおり憶良は第七次遣唐使で唐土に渡っている。そのときの大唐大使が粟田真人であった。新撰姓氏録によれば山上氏は粟田氏の支族で大和国添上郡山辺郡を本拠としていた。山上憶良の出生地を添上郡山辺郡とみると大国魂を頼った意味も解ける。つまり大国魂たる大和坐大国魂神社は古代の行政区画は山辺郡である。憶良の生誕地と一致する。憶良が慣れ親しんだ大国魂を産土と考えれば理解できる。また、憶良が遣唐使に登用されたのも或いは憶良の才能を見込んだ同族の粟田真人のはからいがあったのかもしれない。
大和神社参道
山上憶良歌碑(好去好来)

 大和の偶謡に「祭りのはじめはちゃんちゃん祭(大和神社)、祭りのおさめはおん祭(春日大社)」とある。証鼓をちゃんちゃん鳴らしながらゆくこの祭は例年、4月1日に催される。三輪山を望む風光の佳いところに大和神社はある。 
           好去好来歌
神代より 言ひ伝え来らく そらみつ 倭の国は 皇神すめがみの いつくしき国 言霊ことだまの 幸はふ国と 語り継ぎ 言い継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さわに 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷みかど 神ながら での盛りに 天の下 奏し給ひし 家の子と 撰び給ひて 勅旨おおみこと戴き持ちて 唐の 遠きさかいに 遣わされ まかいませ 海原の 辺にも沖にも 神づまり うしはき座す 諸の 大御神たち 船舳ふなのへに 導き申し 天地の 大御神たち やまとの 大国魂おおくにみたま ひさかたの 天の御空ゆ 天翔あまがり 見渡し給ひ 事おわり 還らむ日は またさらに 大御神たち 船舳にに 御手うち懸けて 墨縄を 延へたる如く あちかをし 値嘉ちかの岬より 大伴の 御津の浜辺に 直泊ただはせてに 御船は泊てむ 恙無つつみなく 幸くいまして 早帰りませ(万葉集 巻五 )
憶良詠歌(サイト内)
憶良の悲しみ
日本挽歌(山上憶良)−太宰府市−
大野山−太宰府市坂本−
鴨生の憶良−稲築町−
荒雄の悲劇−福岡市東区志賀島−
水城の記憶−大宰府市、春日市等−

大和神社の御田祭
 令和2年2月10日、境内の紅梅がほころび、蝋梅が満開の日、斎庭に注連縄を張り御田祭が行われた。田に畦を切り、田起こし、代かきをして稲の苗束をまき、準備が整うと早乙女が田に入り、雅楽の音にのってリズムよく田植えは滞りなく終了した。田楽の音が雅楽であるところが大和らしくてよいものだ。御田は田植えの模擬演技を行うことによって豊作を祈願する祭り。牛が動かなくなったり、暴れたりして筋書きもなかなかよく出来ていて観衆を飽きさせない。今日ばかりはわが国最古かつ最高の神階(正一位)が授けられた大国魂も微笑んでおられることであろう。−令和2年2月10日−
御田祭