南予・大島の秋祭り(夜神楽、海上渡御)−八幡浜市大島−
        伊予路来て海の彼方の神楽かな  〈芳月〉
        みおつくし神座ます宇和の秋    〈芳月〉
大島概観
 南予・大島は本島、地大島、三王島、粟小島からなる島である(写真上)。四国の西南部に位置し、佐田岬半島の南方海上に島はある。八幡浜港から連絡船で20分、本島の船着場に着く。島の高みから四海を眺めると、遥か西方に九州の山並が見える。山稜がうっすらと浮き出て美しい。
 大島の島周りの潮は澄み、10月も半ばというのに汗ばむほどの温かさ。あちらこちらの民家の庭先で真っ赤なハイビスカスの花が咲き、秋の陽を浴びている。夏には島周りでハマユウが咲くという。
ハイビスカス
三王島
三王神社
 寛文9(1669)年、大島は穴井浦(八幡浜市)の庄屋井上五助によって拓かれた。半世紀ほど前まで島はカワウソが生息する島だった。先の大戦後、本土から送電線や送水管が海底に敷設され、島の近代化が進んだ。自然は今なお豊かである。海水浴や釣り、自然探勝などで島を訪れる人も多い。
 三王島は本島と地大島の中間に位置し、ささやかな橋が本島と三王島をつなぎ、さらに三王島から狭い海道伝いに地大島に渡ることができる。三王島はバべ(ウバメガシ)に覆われた島。サンノウサマ(三王神社)が鎮座する。島の頂上に茂るバべの大木はさしづめ海神の依代であろう。島人は子を宿すと安産祈願にサンノウサマに詣で、石を持ち帰り、無事に子が生まれるとまた石を元に戻す風習があるという。福岡県の宇美八幡宮(宇美町)の信仰に似ている。三王島の西側一帯にはシュードタキライト断層が露出する。日本最大級の規模だ。岩石に6000万年前の大地震の歴史が噴出している。
 大島は半農半漁の島。島民は本島の本浦、江之浦、音泊(おんどまり)、雉ヶ浦の4集落で暮らす。近年、魚価は低迷し、また海流(黒潮)の変化が漁獲に悪影響をもたらし、盛期に9統もあったイワシの網船も漁がなくさびれたという。地大島の畑作はイノシシなどの獣害がひどく農作物の収穫が期待できず、耕作放棄地が目立ち叢林と化した農地が多い。
 島の人口はかつて1000人を超えたというが過疎化が進み、いまは300人ほど。子供がいなくなり、小中学校は休校状態。八幡浜市内の高校を卒業すると若者はみな島を離れ、戻ってこないと古老は嘆く。離党共通の悩みだ。日本の離島政策の貧困が島々の今日の困難を生んだといってよいだろう。奄美諸島の中には島に高校を存続させ、我が国有数の高い特殊出生率を保ち続けているところもある。

大島の秋祭り
 本浦の船着場の小道ひとつ越えると、高い石垣の上に若宮神社が鎮座する。その小道の脇に「みおつくし」の標識が4基が立ち、大島の港の在り処を告げている。
 みおつくしが立つ小道脇の空き地にコンクリートを流したテラスがあり、その四隅に白木の柱を立てた作りかけの仮小屋がある。秋祭りの準備らしく仮小屋は神楽場と呼ばれ、毎年ここで宵宮の神楽が奉奏されるのだという。
 大島の秋祭りは10月15〜16日の2日間(平成23年)。宵宮(15日)に神楽、本祭(16日)に神輿の海上渡御(船渡御)が斎行される。
(宵宮)
 秋祭りにおける神楽の奉納は広島など中国地方ではごく一般的であり、大体拝殿で行われる。大島では神楽を奉奏するため毎年、別途、浜に仮小屋を設ける。類例が国東半島の突端にある石清水八幡宮の分社である伊美別宮社(大分県国見町伊美)にある。概ね5年(近年は4年)ごとに行われる祭礼で約40キロ離れた周防灘の孤島・祝島(山口県熊毛郡上関町)に仮小屋を設け、神舞を奉奏する。仮小屋は御旅所と同視できよう。祝島は万葉集にうたわれた島。古来、船人に神の島と崇められてきた歴史がある。大島の神楽場(仮小屋)も祝島と共通する海への篤い信仰がうかがえる。
 宵宮の日、夕刻から小雨模様。神楽の会場は急きょ、神楽場から若宮神社の拝殿に変更された。本殿への通路を楽屋につくり、拝殿内に神棚が設けられ2基の神輿を祀り、三方に餅や白菜、大根などの御饌が供えられる。神楽場においても多分、同様に神棚を設け神楽が奉納されるのだろう。
 次第に雨脚が早くなった夕刻、エンジン音を響かせて大島港に一艘の漁船が近づいてくる。神楽船だ。島民に迎えられ、川名津神楽(八幡浜市川上町)の一行を乗せた船が港に到着。
 神楽の準備が整うと午後7時半ころから神楽の奉納が始まった。外は相変わらず雨模様。拝殿前にテントが張り出され、島民は拝殿内やテント下から神楽を観覧。
邑那の舞
ダイバンマワシ
 「神酒の舞」に始まり「大蛇退治」まで15番、約4時間にわたり神楽が奉納された。川名津神楽は通観して九州の影響を受けつつ、出雲・備後系統の神楽が混淆したものと推される。「大魔」、「山の内」、「羅列」の奉奏においてダイバン(鬼)が登場し、マワシ(廻し)という一種の祈祷が行われることや神楽場の天蓋を綱で揺すり、ちぎれ落ちたシデを拾い家内安全、招福の護符とするなど、この地方特有の習俗がある。
 興味を引くのはダイバンのマワシ。もともと、ダイバンが幼児を抱き抱え、神棚の前で1回転し健康祈願をするものであるらしい。健康は万民の願い。老若男女が自薦他薦或いはダイバンの誘いにより舞台に上がり、マワシを受けることも祭りの楽しみ。恥ずかしさが先立つ少女たちはくだんの曲目が近づくとどこかに雲隠れ。ゆうに100キロもあろうか、巨体の者をブンブン廻すダイバンの体力もまた尋常ではない。子供のマワシは筑紫の伏見神社(福岡県那珂川町)の岩戸神楽によく似ている。大島をはじめ南予で広く行われる神楽とセットになったマワシの行事もまた、九州の影響を否定できない。南予と九州は地理的に近く、国道378号線や同56号線が整備される以前、船が主たる交通機関であった時代には相互に文化を共有しあった永い歴史があった。特に、鹿児島を含む九州東岸の地方との言葉の共通性も色濃い。
 午前0時半頃、神楽の奉奏が終わる。雨も止み、天候も回復の兆し。いっときして、港の灯を背にキラキラと反射する一筋の光を海原に残して神楽船が出てゆく。

(本祭)
 明けて10月16日は本祭。早朝から快晴。昨日来、波止場は連絡船が着くたびに、大きな荷物を抱えた帰省客や出迎えの家族などで混みあっている。乗員は手荷物の配達などで息つく暇もないようだ。
 午後1時、サルタヒコや牛鬼、2基の神輿がでて、行列は太鼓の音を追うようにして本浦、江之浦を経て音泊に向かう。サルタヒコは道々、サカキを振り氏子にきよめの所作を繰り返す。シュロで覆われた牛鬼と神輿は、路地の隅々まで行きつ戻りつしながら集落を巡行。各家庭では門口にシュロを掛ける。一種の魔除けの護符だという。南予の所謂、牛鬼文化圏の古俗であろう。
 行列は要所要所で小休止をとりながら本島の最北端の集落・音泊を目指す。午後2時ころ港から3艘の御座船が一斉に港を発ち音泊の旗場に向かう。いよいよ、神輿の海上渡御の始まりだ。
音泊に向かう御座船
海上渡御(拡大600pX))
 音泊で牛鬼、神輿が3艘の御座船に乗り海上渡御。先頭はサルタヒコと牛鬼。船上の一段と高くなったところにサルタヒコが立ち、踊り、祓いを繰り返す。2基の神輿はそれぞれの御座船に座す。船上の神事で艫や舳で舞い子が踊る例は祝島など瀬戸内でよくみられ、海人が共有する祭文化である。
 音泊を発った3艘の御座船は順次、江之浦、本浦を巡り、太鼓を打ち鳴らし、船中で神輿を差し上げる。本浦の雁木前では船練りが繰り返される。壮観なものだ。
 本浦の港を出た御座船が次に向かうところはサンノウサマ(三王島に奉祀)。神職や関係者がサンノウサマに参拝。
 三王島で牛鬼と神輿は船から降り本島の南端・雉ヶ浦集落を巡行し本宮に戻る。約2時間余の海上渡御だった。
 南予にはよい祭が実に多く残されている。いつまでも、続くことを願いたい。沿海では狩浜(西予市明浜町)などで神輿の海上渡御が斎行されている。−平成23年10月16日−
御座船の三王神社参拝

参考:九州 福岡 博多祇園山笠 筥崎宮の放生会 玉せせり 玉垂宮の鬼夜 婿押し(春日神社) 博多どんたく みあれ祭(宗像大社) 小倉祇園太鼓 佐賀 市川の天衝舞浮立 唐津くんち 四国 愛媛 七ツ鹿踊り 南予の秋祭り  保内の四ツ太鼓 和霊神社の夏祭り 香川 牟礼のチョーサ 四国の祭り 梛の宮秋祭り ひょうげ祭り 小豆島の秋祭り 徳島 阿波踊り 中国 広島 安芸のはやし田 壬生花田植 豊島の秋祭り  ベッチャー祭り 三原やっさ祭り 岡山 西大寺会陽 近畿・京都 湧出宮の居籠り祭 松尾祭 やすらい祭 木津の布団太鼓 祇園祭  田歌の祇園神楽 伊根祭(海上渡御) 三河内の曳山祭 大宮売神社の秋祭り 籠神社の葵祭り 本庄祭(太刀振りと花の踊り)  紫宸殿楽(ビンザサラ踊り) からす田楽 野中のビンザサラ踊り 矢代田楽  大阪 八阪神社の枕太鼓 四天王寺どやどや 杭全神社の夏祭り 粥占神事 天神祭の催太鼓 生国魂神社の枕太鼓 天神祭の催太鼓 秋祭り(藤井寺) 住吉の御田 住吉の南祭 枚方のふとん太鼓 科長神社の夏祭り 岸和田のだんじり祭り 奈良 龍田大社の秋祭り 大和猿楽(春日若宮おん祭) 奈良豆比古神社の翁舞 當麻寺の練供養 漢国神社の鎮華三枝祭 飛鳥のおんだ祭り 二月堂のお水取り 飛鳥のおんだ祭り 唐招提寺のうちわまき 紅しで踊り 糸井神社の秋祭り 国栖の奏 西円堂の追儺会(法隆寺)  滋賀 麦酒祭(総社神社) 西市辺の裸踊り 多羅尾の虫送り 大津祭 北陸 福井 小浜の雲浜獅子 鵜の瀬のお水送り