九州絶佳選
福岡
裂田溝(さくたのうなで)−那珂川町−
 古代ローマの水道橋など、世界には、大昔の施設がいまなお使い続けられているものが少なくない。わが国では福岡県那珂川町に所在する裂田溝(さくたのうなで)がそのような施設のひとつである。博多湾に注ぐ那珂川に一ノ井堰を設け、溝(用水路)が今も山田から今光まで六つの集落の水田を潤している。溝は、被災によりコンクリート等によって補強されたところもあるが、築造当時のままの姿を保っている。古代遺跡とも言うべき水路(溝)が今日まで流路を変えず命脈を保っている不思議は、この溝が「日本書紀」神功皇后紀に記述された特異な存在であったこととも大いに関係しているのであろう。すなわち、日本書紀は、神功皇后が新羅に遠征の折、神田を灌漑するため溝を掘ったとしるされており、後年、農民がみだりにこの溝を改廃することにつき心理的に重い禁忌を伴っていたものとみられる。溝の中ほどに神功皇后を祭る裂田神社がある。溝はこの社の外周を迂回するようにして流れている。岩盤が裂け水路が拓かれたと日本書紀は伝えている。
 裂田神社の西に迹驚とどろき岡がある。安徳天皇の行宮が置かれたところと伝えられ安徳台(写真下)と呼ばれる丘である。この台地状の丘で弥生時代の大きな集落址が確認されている。近くには那珂川本流沿いに住吉三神を祭る現人神社が、一ノ井堰の少し上流に伏見神社がある。裂田溝は、神功皇后を新羅に導き無事、凱旋を果たした住吉神の功績に対し、神田に水を導くために一ノ井堰、裂田溝が開削されたものであると伝えられている。
 裂田溝の築造時期については明らかではないが、溝は弥生時代に掘削されたものであろうか。安徳台における弥生集落の存在がそれを裏付けているように思う。つまり、当地の地形などから、溝の存在なくして安徳台集落は弥生集落として存在しえなかったと考えられるのである。安徳台遺跡は、弥生時代における大規模な利水事業の実施を立証するものであるとともに、那珂川流域を支配地域とした奴国の王権と三韓との関係を探る上でも極めて重要であろう。また、潅漑の実践は九州における稲作の飛躍的な進歩を促すとともに、後年この流域に安徳大塚や貝徳寺古墳、日拝塚などの前方後円墳が出現する素地となったのではないだろうか。
 さて、伏見神社の祭神は神功皇后と淀姫命、竹内宿弥等五柱である。一ノ井堰の守り神として奉祀されたのだろう。拝殿に随分多くの絵馬(写真右)が奉納されている。毎年、7月14日に岩戸神楽(写真左)が演じられる。子どもの健康を授かる神事の側面もあって毎年、神楽見物に訪れる人も多い。
 那珂川は、ヤマト王権の時代に至っても沿川に那津官家(なのつのみやけ。西暦536年設置)が置かれるなど対朝鮮半島との外交、交易等々の諸点からも極めて重要な河川であり続けた。
 那珂川の流域には、古い時代から現人神社を斎き祭った海人が住みついていたのであろう。現人神社の社伝は、博多の住吉神社は現人神社の分霊、大阪の住吉神社は和魂とする。那珂川流域は、稲作を行なうにもまことによい条件が整っている。この地には、弥生時代からヤマト王権をつなぐ長い歴史が凝縮されているように思う。
 裂田神社辺りの溝辺を歩いていると、稲田と安徳台を往来する弥生人の姿が見えるようである。−平成17年11月−


裂田溝

一ノ井堰

現人神社

裂田神社
安徳台遠景(右手の鎮守が裂田神社)