福岡
弥生のムラ(板付遺跡)−福岡市博多区板付−
昭和25年、福岡平野の中央部の小さな丘陵から弥生時代のムラ(板付遺跡)が発見されてから55年が経過する。その3年前に登呂遺跡から水田跡が発見されており、日本民族のルーツや稲作の起源などに関心が高まった。以来、平塚川添遺跡や菜畑遺跡、吉野ヶ里遺跡など北部九州で相次いで弥生遺跡が発見され、遺跡の復元などを通じて人々の弥生文化への熱い視線がそそがれるようになって久しい。板付遺跡は、そうしたブームのさきがけとなった遺跡であり、私たちの記憶から消え去ることはない。
板付の台地上に、幅約6メートル、深さ3メートルの環濠が集落を巡る。集落の径は108メートル。竪穴式住居に貯蔵穴、木製の鍬、鋤などの農具に加え、石包丁、甕棺、銅剣、銅矛等の金属器が発掘された。
板付遺跡は
、博多湾に注ぐ御笠川と那珂川に挟まれた丘陵にある住居址。縄文式土器と弥生式土器が併存する遺跡である。復元遺跡に弥生館が併設され、土器等の出土資料が展示されているのでご覧になるとよい。
御笠川と那珂川に挟まれた
丘陵地帯は集落を営む適地であったらしく、まず昭和13年にJR博多駅の南3キロメートルほどのところから弥生時代の環濠集落・比恵遺跡が発見された。甕棺や土器等を伴うわが国最初の環濠遺跡の発見だった。続いて、昭和29年に比恵遺跡の近くから同様に甕棺、土器を伴う弥生時代の環濠集落跡・比恵環濠集落遺跡が発見され。これら二つの遺跡は、福岡市博多区の山王公園近くの住宅地内に所在し、さまざまな情報を私たちに提供してくれている。
板付遺跡
板付遺跡弥生館
比恵環濠集落遺跡の環濠の幅は1メートル、一辺10メートルの四角い環濠内に住居が2棟建ち、このような環濠がいくつか集まって集落が形成されていた。簡単に飛び越えられそうな環濠は、防衛手段というより害獣や害虫からの防御を意識したものにみえ、環濠の着想がわかる。
唐津の菜畑遺跡からは縄文時代の稲作田等が発見された。板付遺跡や比恵遺跡から出土した土器に縄文土器の様式をとどめるものが出土して稲作の起源等にさまざまな問題を提起している。
稲作の起源について、一般的には朝鮮半島から弥生式土器と鉄器、種籾を携えた渡来人が北部九州におしよせ稲作を始め、ごく短期間のうちに全国に稲作が広まったと説かれるている。しかし、稲作の起源はそんなに単純なものであろうか。朝鮮半島から日本に上陸した鉄器が農具の改良に大きな効果を与え、稲の作付面積や生産量が飛躍的に向上し、人口の増加と冨の集積をもたらし弥生文化が花開いた。しかし、文化の開花と稲作の起源や民族移動とは別次元の問題であろう。
九州は縄文時代から南方諸島や南シナ、朝鮮半島等との長い交流の歴史がある。神話や民俗、栽培穀物の類似性などをおもえば、いわば環シナ海文化ともいうべきものが想定でき、諸民族が相互に影響を受けつつ文化が育まれてきた。縄文式土器の特徴を残す弥生式土器が北部九州の遺跡から出土する事実は、縄文から弥生時代へと緩やかに変貌を遂げていったことをうかがわせる。
朝鮮半島から渡来人が大挙して押し寄せ北部九州に上陸し、稲作が始まったのであれば、板付遺跡や比恵環濠集落遺跡等からそれと確認できる遺物包含層の断層が確認できてしかるべきであるが、事実はそうではなく縄文式土器からいわゆる弥生式土器の時代へと緩やかに転換してゆく様子がみてとれるのである。縄文と弥生が伴走する時期が比較的長く続いたのである。今後、新たに発見される遺跡の遺物から放射性炭素年代測定等の科学的手法によってその実態が明らかになってゆくであろう。
アワ、ヒエ、コメなど南方起源の栽培穀物はもともと縄文時代に日本伝わっている。米は、黒米、赤米などの長粒種と短粒種が並存し用途に応じ細々と栽培されていたが、鉄器を得てその生産量は飛躍的に増加したであろう。魏志倭人伝は、朝鮮半島に出向し、鉄を求める倭人の姿がしるされている。
また、主として頭骨の形状の遷移から、朝鮮半島から日本に大挙して渡来人がやってきて稲作を始めたと説く者がいるが、特定集落における渡来人的な人骨の割合を論じてみてもサンプルが少なく余り意味があるものとも思われない。渡来人が上陸したとする年代が想定され、その前後における絶対的に多数の人骨サンプルが比較され、顕著な差異があると検証されたのであれば、そうした推論にも一定の理解が得られるであろう。もともと日本はその地理的条件から北方、南方のアジア人種が交じりあう交差点のようなことろだ。一部遺跡の特質を一般化すると、真実を見失なってしまうように思う。
比恵遺跡は、幾度となく発掘調査が行われ、縄文時代から戦国時代に至る複合遺跡であることが判明した遺跡である。数年前に実施された調査で、一辺が約50メートルの方形区画から10棟の総柱建物が発掘された(写真左、現地説明板から引用)。倉庫とみられているが、ヤマト王権が
磐井の乱
を平定後、536年(宣化元年)に設置した
那津官家
(
なのつのみやけ。
大宰府の前身)との関係が注目されている。−平成17年5月−平成17年5月−
比恵環濠集落遺跡
比恵遺跡
発掘現場(説明板より)