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福岡 |
磐井の反乱(岩戸山古墳)―八女市― |
福岡県の南部に八女市がある。市の北部に耳納山地から張り出した八女丘陵が東西に延び、その西端部は広川町に連なっている。
八女丘陵は古代豪族の墳墓が集中するところ。約300基の古墳が群集する。丘陵のほぼ中央に筑紫君磐井が眠る岩戸山古墳がある。磐井は日本書紀に登場する人物。墳墓は、磐井が生前に築造したものと伝えられ、文献資料から築造年代が確定された貴重な古墳である。全長135bの前方後円墳は九州一の規模。後円部の径は約60b、高さ約18bである。
古墳の東北部に一辺が約43bの方形の区画(別区)が設けられている。磐井の政所と考えられ、奈良時代に編纂された筑後国風土記は、石人によってイノシシを盗んだ裸の罪人が裁かれる場面を現していると伝えている。
墓前祭の鎮魂の余興とする説がある。別区の隅に石人、石馬が5、6体、一列に立っている。築造当事と変わらないであろう空間で子供が3人、楽しそうに遊んでいる。
岩戸山古墳は、石人、石馬、力士、盾、太刀、水鳥など多彩な石像が立てられた墳墓。磐井を有名にした出来事があった。「磐井の乱」と呼ばれるヤマト王権への反乱事件である。西暦527年(継体天皇の21年)、ヤマト王権は朝鮮半島の任那の失地回復に新羅出兵を企て6万の兵を西下させたが、磐井が近江毛野(けぬ)の進軍を阻んだ事件である。反乱は1年半におよんだが、磐井はヤマト王権が送った大将軍物部麁鹿火(あらかひ)によって斬られた。
反乱の経緯について、磐井が新羅に内通、共謀したとの見方がある。北部九州は、ヤマト王権が常に意識していた中国、朝鮮半島に近い。磐井の時代には、高句麗の南下の圧力が強まり、高句麗沿海の航行が難しくなると有明海から済州島を経て中国に至るルートが一般的になり、筑紫を中心に、豊、肥の二国にも勢力をはり、朝鮮半島とのつながりをもった筑紫君磐井が有明海に近い八女を本拠地としたのもそうした極東の政治事情も影響したのだろう。
ヤマト王権が成立する前から、弥生時代の北部九州のクニグニの王は、中国大陸や朝鮮半島に雄飛していた。中国の文献に倭国の遣使の記録があり、朝鮮半島から九州産黒曜石や弥生式土器など倭国産の遺物が出土する。また、北部九州から出土する鏡、銅剣、銅矛、勾玉などの祭器や支石墓、甕棺墓などの墓制の源流を朝鮮半島に見出すことができる。平原遺跡や須玖岡本遺跡、菜畑遺跡など北部九州の弥生墓から出土する舶来鏡、銅剣、璧などの遺物は、そうした大陸との交流の所産であり王の権威の象徴としてしだいにわが国の社会に根付いていく。平原遺跡や須玖岡本遺跡の王たちが大陸に雄飛していた頃、畿内及びその周辺地域においては社会構造の点で北部九州ほど発達していなかったに違いない。畿内に舶来鏡や剣、璧をセットにして副葬する弥生時代前期ないし中期の墳墓が散在する状況を私たちは知らない。北部九州の王墓から出土するらそれらの遺物や墓
制は畿内から伝わり或いは与えられたものではない。後代に畿内や東国の墳墓から出土するそれらの遺物や墓制は、九州の文化が東進していく当時の状況証拠にほかならない。弥生時代から古墳時代にかけわが国の文化のコンパスは、明らかに北部九州に軸を置く時代が長く続いたのである。
日本の古墳から出土する高句麗の古墳壁画に描かれた兜、馬甲、馬面冑などの武具類や利器は、玄界灘の制海権を握っていた九州の豪族の手を経て流通したのであろう。ヤマト王権が誕生し、時代が磐井の時代に下っても、北部九州の豪族は、武器や装飾品、農具など金属地金の旺盛な国内需要に支えられ、朝鮮半島諸国との交易で蓄えた強力な経済基盤を有していたであろう。その統帥が筑紫君磐井であった。
墓に石馬を立てる風は中国で盛んであったが、磐井と同時代かそれを遡るものが2例知られている。一つは前漢の武帝の茂陵の陪墳。BC2世紀頃の墓である。被葬者は。もう一つは五胡十六国の夏の建国者が424年に築造した墓の石馬である。いずれも華北の墓であるが、の石馬は磐井の時代に近い。墓に石馬を飾る中国の墓制は、王に特化される習俗。磐井はそうした東アジアの潮流を己の生前墓にうつしたものであろうか。八女の立山山古墳(8号墳)出土の金製垂飾付耳飾(写真左)などは新羅天馬塚98号双墳出土の金製耳飾や金製垂飾をあわせたような美しさがある。熊本の江田船山古墳出土の金銅製冠帽なども98号双墳出土銀製冠帽とよく似ており、九州と新羅との緊密な関係をうかがわせる。
6世紀に至りヤマト王権は、高句麗の南下と新羅の強権化など風雲急を告げる朝鮮半島の政治情勢への憂慮から磐井に朝鮮半島への出兵を命じるなど、磐井が連綿として築いてきた利権を脅かす何らかの行動があって磐井に反乱を決意させたのではあるまいか。日本書紀は、・・・外は海路をたへて、高麗、百済、新羅、任那等の国の年ごとの貢職の船を誘致し、内は任那に遣せる毛野臣の軍を遮り、・・・としるす。朝鮮半島の諸国は磐井に朝貢するのであり、その権勢はヤマト王権を凌駕する勢いであった。倭国に二王朝ありの印象もヤマト王権の磐井への憎しみを増幅させたであろう。
磐井が新羅から賄賂をとり内通したという見方を超える遥かにダイナミックな関係が、磐井と朝鮮半島諸国との間に築かれていた。磐井はヤマト王権よりはるかに正確に、中国や朝鮮半島の政治の潮流を嗅ぎ分けていたにちがいない。すなわち、磐井の反乱前夜におけるヤマト王権と百済武寧王との関係ははなはだよく、武寧王は耽羅(済州島)を征服すると任那4県の割譲を要求し、ヤマト王権がこれを承認するとさらに2県の割譲を要求してヤマト王権に飲ませたのである。任那4県の割譲に大伴金村の私情があったといわれるが、任那諸国は反発し、新羅はこれを奇禍として任那への侵奪を始める。任那は、高句麗の圧力によって南下を余儀なくされた百済と新羅の領土拡大の草刈場となったのである。
磐井は、百済の危機を察して新羅と連合し高句麗に抗すべしと主張したことであろう。そのことがヤマト王権に新羅との内通とみられたのである。百済へ任那を割譲し、任那を侵奪した新羅を攻め失地の回復を図るというヤマト王権の戦略は、磐井の深い悲しみとなったことであろう。遂に磐井は、反乱を決意し、近江毛野の進軍を阻んだのである。
書紀に不可解な磐井の言動が記録されている。近江毛野の進軍を阻んだおり、磐井は・・・今こそ使者たれ。昔は吾が伴として、肩を摩り肘を触りつつ、共器同食。安ぞにわかに使となり、余をしていましが前に自伏はしむることを得んや。・・・と乱語を発したとある。伴が毛野でないことは明らかであろう。国造本紀に筑紫国造磐井は大彦命(景行天皇)5世の孫、田道命を国造と定め賜うとある。磐井と継体天皇との接点を窺わせる。磐井の乱語をあえて日本書紀にとどめた理由を含め興味をひく。磐井は今、豊(豊前豊後)と火(肥前肥後)の国をも従えて筑紫に君臨している。朝鮮半島諸国の王が磐井を倭国王と認識していたとしても不思議はなかったであろう。日本書紀は、大部をさいて磐井の反乱の鎮定にヤマト王権の命運をかけるほどの決意をしるしているのである。
磐井は筑紫の御井郡(三井郡。久留米市付近、写真左下)の激戦で、物部麁鹿火に破れ斬られたと日本書紀はしるす。風土記によれば、磐井はひとり豊前国上膳県に逃げたとしるす。磐井の反乱を鎮定後、近江毛野は新羅に向かったが功を奏さず、失政からか召還される途中、対馬で病死する。その後新羅は強大化し、朝鮮半島を席捲し統一新羅がなったのである。新羅と組み高句麗と戦う戦略を描いていたであろう磐井の判断に誤りはなかったようにみえる。
磐井の反乱の翌年、ヤマト王権は磐井の子の葛子から粕屋の割譲を受け屯倉を設置し、筑紫に楔を打ち込むことに成功している。さらに乱後十年もたたない西暦535年(安閑天皇の2年)、ヤマト王権は、筑紫の穂波・鎌や豊国の湊崎(みさき)・桑原・肝等(かぬと)など磐井の勢力圏に屯倉を設けるなど九州の直轄支配の足掛かりとした。磐井の反乱は、ヤマト王権の国内統治史上、画期的な転換点となったのである。
任那の割譲を受けた百済武寧王は、翌年、五経博士の日本への送致という漢学文化の輸出をもってヤマト王権へ代償措置を講じている。その後も不安定な半島情勢は、百済の貴族らを日本へ押し出すことになった。欽明天皇の元(540)年に渡来した弓月君と弓月君が率いた秦人の数は7053戸、人口にして10万人ともいわれ主に近畿地方に定住した。さらに、百済が滅亡した天智天皇の代(660年)には約5000人の百済人が日本へ逃げてきた。そうした朝鮮半島の政変は、奇しくも日本の政治文化の形成に大きな影響を与えることになったのである。
八女丘陵の西端に所在する石人山古墳(写真左上は石人山古墳の石人)のころ以来、連綿と続いた石人、石馬を古墳回りに並べる風は磐井の乱の後、姿を消し、筑後川、遠賀川流域を中心にして装飾古墳の全盛期を迎えるようになる。壁面に渡海の構造船(ジャンク船)、宿星、わらび手紋などが描かれ、前室、玄室などを飾る装飾古墳。それはまた磐井の没後も玄界灘に雄飛した筑紫の被葬者の生前の姿を現しているようにみえる。
岩戸山の出土品は、古墳近くの岩戸山歴史資料館に展示されている。岩戸山古墳や岩戸山歴史資料館など八女を尋ね、筑紫君磐井をしのぶ旅もよいものである。八女はまた町並みにも古色が漂うよい町である。−平成17年−
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岩戸山古墳 |
岩戸山古墳(別区石馬) |
岩戸山歴史資料館 |
岩戸山歴史資料館 |
岩戸山歴史資料館 |
岩戸山歴史資料館 |
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継体天皇擁立と磐井の乱語の意味と背景 |
日本書紀に記された磐井の反乱は古代日本の対朝鮮半島外交や天皇制の実態を探るうえで様々の情報を提供してくれている。
倭国は4世紀末から朝鮮半島に進出し半島南部の任那(初出は広開土王碑文。伽耶又は任那・加羅とも呼称された地域)を支配していたところ、磐井が新羅と謀ってヤマト王権の利権を損なったとされる事件に端を発した磐井の反乱は、磐井とヤマト王権が二度にわたって戦った末、磐井がヤマト王権によって滅ぼされた極東を巻き込んだ古代日本最大の騒乱といってよいだろう。
新羅と謀ってヤマト王権に対抗した磐井の素性は、既述のとおり日本書紀に記されている。果たして倭国に騒乱を誘発するどのような背景事情があったのか探ることとしよう。
事件は6世紀、継体天皇の治下におこった。継体天皇(第26代)の前帝武烈天皇(第25代)には子がなかった。崩御によって国内外に混乱が生じく、磐井の騒乱の政治的背景を複雑にさせたことだろう。武烈崩御後、空位となった帝位につき継体天皇を擁立したのは大連大伴金村らであった。金村は百済に任那4県を割譲した人物だ。
書記は、金村らははじめ丹波国の倭彦王(仲哀天皇五世孫)を王位継承者に選んだが逃げられ、近江国高島郡生まれで越前国三国育ちの男大迹(おおど王。応神天皇五世孫)を後継に選んだ。天皇となった継体は仁賢天皇(第24代)の皇女・手白髪命を娶ったとする。5〜6世紀ころの皇位継承の原則など天皇制の仔細が分からずまた継体の出自などにつき記紀の記述に濃淡があって男大迹王擁立の経過を非常にわかり難くしている。畢竟、継体が傍系の天皇であることはいなめず天皇が万世一系と称するにはだいぶ違和感があり、手白髪命を娶ることによって新王朝と前王朝との継続性を維持しようとした金村らの策略を読み取ることができよう。
しかし、武烈天皇に対する記紀の記述は乱雑に過ぎ、果たして武烈が仁賢天皇の子(記紀は男子1子ありと記す)であったかどうかすら疑わしい。記紀は武烈の人格を否定するような表現を用い、その治世を酷評する。その異様さは王朝の交代をあえて正当化するための一種のトリックとして武烈を登場させたような印象すらあり武烈の実在にすら疑念が生じる。僕は一歩踏み込んで考えると、そもそも仁賢天皇に皇子がなかったのではないかという疑念を払しょくできない。仁賢天皇に皇子がなくここで男系が絶え武烈神話が創造されたのでないかと思ってもみるのである。
仁賢天皇の崩御後、帝位は長く空位となった。武烈の在位期間とされる9年程度、空位が続いたのではないかと思う。その間、倭国の豪族に対する制御が利かなくなり大和では大伴金村や物部麁鹿火が台頭し、九州では磐井が着実に実力を蓄え、朝鮮半島との交易ルートを独占し磐井の墓にみられる石人などみると中国王朝への接近もあったことであろう。半島に近く地の利がある磐井は着実に実力を養い、新羅や任那諸国との信頼関係が築かれていったことは自然である。またそれら国々に高句麗、百済との対抗上磐井の武力に期待するむきがあったとしても不思議ではない。
磐井の台頭に懸念を抱いたのは金村や対半島交易に携わった北部九州の豪族たちであったはずだ。対半島政策を旧に復してヤマト王権の経済力を増強するためにも金村らは磐井の勢力圏を避けた日本海ルートの交易路の確保や磐井の九州を握られた今、新羅攻撃の拠点の確保が急務と考えたことは想像に難くない。このことは金村らが王位継承者として丹波国の倭彦王、次に近江国高島郡生まれの男大迹王(継体天皇)の擁立に奔走したのはそのような策略を映すものではないだろうか。丹波は若狭湾を擁し由良川などの水運の要路にあり、近江国(高島郡)は敦賀で荷揚げされた物資を琵琶湖の水運を通じ畿内に運ぶ要路を占め、丹波同様に軍事にも地の利がある。いずれも交易ルートや進軍等の軍事拠点としての地理的環境を備えている。倭彦王や男大迹王は遠縁であってもどうしても押さえておきたい豪族であって、二王に白羽の矢を立てた金村らの策略にも合理性がある。
磐井の乱語から推して磐井と継体は任那日本府の駐在官人として或いはいわば商社マンとしてしばしば朝鮮半島と倭国間を往来する人物ではなかったか。両者は日本府の同僚で親密な付き合いがあって、酒を酌み交わすほどの仲であった。磐井の乱語はこのような両者の関係を如実に表すものではないだろうか。磐井の反乱は奇しくも任那日本府を接点とする両者の覇権争いの結末とみることもできるだろう。
継体天皇は帝位についても容易に大和入りができず、樟葉宮(大阪府枚方市)、筒城宮(京都府京田辺市)、弟国宮(京都府長岡京市)を転々としている。大和には前王朝時代の豪族たちがいて支持を得られなかった事情もあったのだろう。弟国宮から大和入りし磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に宮を構えるまでに実に20年を要している。
書紀は磐井の反乱は継体天皇が大和入りした翌年のこととしているが武烈の実在性を思うとそれは大和入り前であったかもしれない。磐井を倒して認められ、大和入りしたと考える方が自然と思う。
継体天皇の墓(三島藍野陵。全長全長286メートル。大阪府茨城市)は淀川右岸にある。考古学の知見から陵の築造年代は5世紀とみられ、継体天皇陵を崩御年と一致する今城塚(350メートル)とするむきもある。 |
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継体天皇陵 |
今城塚(案内板引用) |
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