於与岐八幡宮の秋祭り(獅子舞,鼻高舞)-綾部市於与岐町- |
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丹波の弥仙山(674㍍)を源流域とする伊佐津川の段丘上に於与岐八幡宮が鎮座する(写真上)。和同3(710)年、宇佐八幡宮の分霊を拝受し創建されたという。一ノ瀬にあった元社は洪水などによって潰れ、現在の社殿は江戸期(正徳5(1715)年)に造営された。六間社流造の立派な社殿で京都府下に類例がない。軒周りの懸魚、妻壁なども実に精緻な彫刻が施され美しい。
※「於与岐」は古代の何鹿郡八田郷内の邑とみられる。今は綾部市東八田地区内の町。
穏やかに晴れた秋の日(R5.10.15)、伊佐津川の段丘上でたわわに実った稲穂が豊穣の時を告げている。
今日は於与岐八幡宮の例大祭。祭りは宮座によって執り行われ、その下に祭の諸役を株(※後述)に割り当て斎行されてきた。それは当社が村社となった明治期に神職が配置され祭りは大分風化したとはいえ本邦唯一の特色のある祭である。
祭の進行は概略次の通り。
1 午前10時から本殿で神事が斎行された。祭の行列は同11時ころ本殿、庭、舞台周りを楕円を描くように3巡。
2 行列の先頭は1メートル.余の幣串に挿した白幣。
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①白幣、田楽 |
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②旗、金幣、弓矢、鉾 |
2番鳩型、3番太鼓(胸前に固定)、4番鳴子(2名)と続く。2~4番の奉祀はいずれも裃姿の少年。一団は鳩型を掲げアーオ・ハト、アーオ・ハトと囃子ながら進む。(写真①)
鳩は宇佐八幡宮の使いとされる。太鼓に続く鳴子はササラ。太鼓、鳴子が揃い田楽の態を成す。短冊状の割竹を綴ったササラを腕に下げ進む。ササラは神霊の依り代。形状はヒヤソ舞や矢代田楽のそれに似ているが囃子は
「アーオ・ハト」のみで、舞は伴わない。
5番旗(2名)。6番金幣。長い幣串に大きな金属製幣が挿してある。7番弓矢。8番鉾。長い竹棹に金属製の鉾が挿してある。(写真②) 9番獅子。10
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④神輿(金属製) |
番鼻高。11番神職。(写真③) 12番神輿(一宮)。13番禰宜。14番神輿(二宮)。15番神輿(三宮)。16神輿。17番撰炊が続く。神輿は舁き棒を除き鉄製(写真④)。京都府下では珍しい。神輿の舁き手は6~7名。
於与岐八幡宮の宮座 |
祭の実行、運営は氏子で構成する宮座によって行なわれる。府下の山城や奈良県下などに宮座が残るが少ない。
於与岐八幡宮では祭の諸役を宮座の構成員たる「株(※)」によって祭は行なわれる。祢宜株、鼻高(長)株、獅子株、庭雀株など仔細に定められ祭儀は斎行される(境内の舞台通路に諸役を掲示)。少子高齢化や生活様式の変化によって株(諸役)の確保が大変、難しくなっているようである。
【※】 本家、分家等で同姓、同紋(家紋)の集団を一般的には株、株内と呼ぶ。近世に成立したかと思われる。風化が著しいとはいえ各株では独自の小詞を設け、神仏を祀り、年頭・春秋・冠婚葬祭等折々に祭事を催す。京都府下、丹波・丹後地方特に、丹波には多くの株が存在し、大きな株になると1集落30戸(綾部市)に及ぶ株も存在する。 |
3 行列の巡行が済み、神輿3基は庭の東側に安置。神職、禰宜らは庭の北側隅に着座。神輿、諸役、氏子、参詣人らが神職から祓いを受ける。
4 獅子舞、鼻高舞が奉納される。
ⅰ 獅子舞は伎楽系の二人立ち。青袴、藁草履履きのいでたち。舞が済むと氏子らは競って獅子の口に頭をさし出し、噛んでもらって無病息災、邪気退散を願う。高齢の希望者が多いのも時代の反映か。
ⅱ 鼻高舞は天狗の面をつけ柄の先に鈴のついた木鉾を持って舞う。白衣、青袴を纏い、藁草履のい
でたち。木鉾で地をかきならし、踏みしめ、しずめ、地に鉾を立て身をそらし天を仰ぐ仕草をする(写真左)。当地の開拓と豊穣を天に祈る姿にも見え、分かり易く、舞は力強い。
鼻高舞について「蘭陵王の舞」(舞楽)に淵源を求める説がある。都からもたらされたにせよ装束、フリ等々をみてすんなりと舞楽のそれに淵源を求め難い。しかしまた、身をそらし天を仰ぐ仕草などは若狭(福井県)で盛んな王舞にも似たところがあって無視もできない。再考の余地もあるだろう。
於与岐八幡宮の祭の起源 |
於与岐八幡宮の秋祭りの起源について、既述の通り鎌倉時代に京都から当地へ伝えられたとする説がある。祭の行列中、田楽を思わせる要素がありそのような解釈がなされている。しかし一体、だれがどのような経緯から当地に祭をもたらしたものか、大変興味深い。
鎌倉時代、武士や社寺が力を蓄え荘園が各地に置かれ、農民の生活にもゆとりが生じると信仰や祭が年中行事として定着するようになる。領家や領主は領民を慰撫し域内の平安を保つため荘園に寺社を普請し仏像を施入し、田楽や浮流等都の風俗を滲み込ませることもあったであろう。
於与岐八幡宮の祭の創始を鎌倉時代とした場合、祭をもたらした者がいたのかどうか、疑問が残る。まず当地の領有状況を見ると、領主や領家或いは土豪などに係る文献資料が少なく、即安国寺や秦氏長等の支配地とも考えにくい。
翻って八田郷の秦氏は自ら同族の信仰の篤い宇佐八幡宮を勧請(和同3(710)年)し、同様に境内に稲荷社を祀った。時を経て、相互に地理的にも近い若狭の王舞などを観つつ今の祭りを自ら創りあげたようにも思われる。
さらに遡って秦氏の素性を探ると、仁徳天皇は皇后磐之媛の外、桑田玖賀媛や八田皇女などを宮中に入れた旨記している(日本書紀)。それら皇后等はいずれも渡来系氏族の裔とみられ、八田皇女は伴造たる秦氏の部である「八田部(後年の八田郷)」から皇室に入った人ではなかろうか。祭を見ていると古代の八田部の繫栄が浮かんでは消える。
〈八田郷あれこれ〉
於与岐は律令制下の八田郷。そこは何鹿郡内にあって豊かな郷であった。
於与岐八幡宮は往時、味方村以北の7カ村(現在の東八田地区)の総鎮守(産土神)であり、信仰の中心を成していた。
翻って「八田」の開拓は渡来氏族「秦氏」によって行われたものか。八田は秦の借字であることは知られたところ。地名辞書に「雄略天皇16年、渡来した秦の民を散ち遷して庸調を献らしめき…」とある。その記事にとどまらず、渡来人は波状を成して丹波丹後に押寄せ、正史に残らない多くの渡来人が入植したことであろう。8世紀以前には入国管理がなされておらず渡来はフリーであったから八田郷にたどり着いた人々もいたであろう。さらに上古には八田部が存在したと推されることは既述の通りである。
古文書に八田が「矢田」と表記される場合があり「ハタ」ではない、つまり秦氏たる渡来人の存在を否定する説がある。八田を「ヤタ」と呼んでいたため「ヤ」に「矢」を当てたにすぎない説で全く根拠にならないというべきであろう。
六国史に、仁和3(887)年に叙位に浴した漢部妹刀自売の夫が秦貞雄であったことが記されまた、平城京出土の木簡に「丹波国何鹿郡八田郷/戸主秦」とあり八田郷に秦氏が住まいしていたことがわかる。
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5 鼻高舞が済むと祭の参加者一同の記念撮影。コロナ禍に耐え続けた日々。今日ばかりは参加者の顔はほころび、日常生活が元に戻るよう願ってフィルムに焼き付けられた。
6 祭のトリは於与岐太鼓の奉納。
保存会による与岐太鼓が奉納された。太鼓は大太鼓方、小太鼓方が一つの太鼓を同時に叩く丹波地方の独特のもの。保存会はすべて女性、結成から20年という。高校生など若い演者も育っている。於与岐太鼓の上演に氏子や観客は大満足。11時45分了-令和5.10.15- |
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