京都
筒城宮址−京田辺市多々羅都谷−
 京都の南部、大阪府との境に旧綴喜郡普賢寺村がある。近年、同村多々羅地区に同志社大学のキャンパスが拓かれ、道路がつきこの辺りは一大学園都市の景観を呈している。京都盆地の南辺に当たる丘陵地帯で、そこから西に向かって大住、洞ヶ峠、樟葉と続き、上代から近世にかけ、いくつもの歴史が埋もれるところである。
 普賢寺は木津川に近く、平野があり、なだらかな丘陵と小さな谷が折り重なり、いかにも農耕に適したところ。かつ高燥の山地は桑の栽培適地である。
 上古、仁徳天皇の皇后磐之媛(いわのひめ)が自身の外、天皇が桑田玖賀媛や八田皇女などを愛し、宮中に入れたことに腹を立て都を出て山背の筒城宮(つつきのみや)に還ったと日本書紀はしるしている。今の京田辺市多々羅都谷辺りか。磐之媛はその宮の南に宮室(おおとの)を興(たて)て住み、薨ったところも筒城宮と書紀はしるす。さらにまた、古事記は、‘・・・筒木の韓人、奴理能美(ぬりのみ)の家に入り座(ま)しき。・・・奴理能美が飼う虫、ひとたびははふ虫になり、ひとたびは殻(かひこ)になり、ひとたびは飛ぶ鳥になりて、三色にかはる奇(あや)しき虫・・・’としるし、大后はこの虫見たさに奴理能美の家に入ったのだと説く。この虫は明らかに蚕であり、この地方で韓人による養蚕がおこなわれ、磐之媛はその縁者とみられる。
 仁徳天皇は応神天皇に続き海外に雄飛し、国内では難波の堀江を掘削し、茨田堤(まむたのつつみ)を築くなど大土木事業の創を築いた天皇である。田の乾田化や養蚕の振興などにより国力は大いに伸長した時代だ。日本書紀は皇后磐之媛について、葛城襲津彦の女で竹内宿祢の孫としるしているが、仁徳天皇が次々と婚(みあ)いする女性に嫉妬し還ったところは筒城の家である。同様の場面で、古事記は、大后(磐之媛)が‘つぎねふや やましろがわを みやのぼり わがのぼれば あおによし ならをすぎ をだてやま やまとをすぎ わがみがほし くには かづらぎ たかみや をだてやま やまとをすぎ わがみがほし くには かづらぎ たかみや わぎへのあたり’と歌い、筒木の韓人の奴理能美の家に入ったと具体に記す。難波の堀江を遡り山代川(木津川)を経て、奈良経由で葛城の我が家に帰るという迂遠なルートをなぜ選択したのか。奴理能美の家に入った大后の逃避の目的を記しておきながら、つじつまの合わない歌を大后にうたわせるわけは、私にはどうも、臣下で初の立后を果たしたた大后であったから、その出自は葛城襲津彦の女で臣下中の臣下、竹内宿祢の孫であらねばならなかった作者の作為が見え隠れして、結局矛盾を露呈している。真実は、筒木で商品作物である桑を植え、繭を紡ぎ布を織り、財を成した渡来人がいわばヤマト王権のパトロンとなり、磐之媛を仁徳天皇のもとに送り出したように思われる。記紀がその大分を割いて、磐之媛のいわば里帰りの記述を記すのも、当時、渡来人の突出した財力とそのバックアップに頼らざるをえなかった時代背景があったのだろう。渡来人の財力は、遷都を左右するほどの力を蓄え、後年、秦川勝のごとく伴造に君臨し、為政者を補佐し、大きな政治的発言権を保ちえた者もいた。
 さて、仁徳天皇の行いに怒り、筒城に帰った磐之媛の呼び戻しに向かったのは口持臣(くちもちのおみ)。雪や雨の降るなか日夜、ひれ伏して磐之媛が天皇のもとへ戻ることを懇願したのであるが、磐之媛は態度を変えなかった。その際、口持臣の妹国依媛が磐之媛に仕えていて、兄を慮った国依媛の歌が日本書紀にしるされている。
やましろの つつきのみやに ものまをす わがせをみれば なみだぐましを
 時代を経て、継体天皇は樟葉宮で即位し、その数年後に丘を一つ越えた東方の筒城宮に遷り、弟国宮(おとくにのみや)を経て大和の磐余玉穂宮に遷る。それまでの約20年間、継体天皇は淀川流域の北河内、綴喜郡、乙訓郡に築いた宮を転々とし、大和に入ることはなかった。この点につき、継体天皇は武烈天皇に皇嗣がなく仁徳天皇の末孫から選ばれた男大迹王おおどのおおきみが越前三国の人で大和に縁がなく敵対する勢力を恐れて大和に入れなかったと、説く者がいる。しかし記紀の記述ぶりからこの頃、朝鮮半島諸国との渉外記事が実に多く、仁徳天皇が難波高津宮に都を置いたように、継体天皇は海外との交渉を考え、また筒城などの渡来人の財力をバックにして、海に近い淀川、木津川のほとりに都を置いたと考える方が自然である。治下、高句麗の南下や新羅の強国化、九州の磐井の反乱など外患内憂の時代であったから、到底、大和に引きこもるほど悠長な時ではなく、難事に備え大和に入らなかったのだろう。
 筒城宮の場所につき諸説ある。普賢谷の大御堂観音寺辺りとみたり、多々羅地区の都谷とみたりして、有志の者や筒城宮址顕揚会がそれぞれ別個の場所に石碑を建てていたが、両石碑は一旦現在の同志社国際高校前に移された後、二十数年前、再度、同志社大学構内の小丘に移転し、両碑が並べおかれた。大学の校門に入ってすぐ右手に石碑はある。いつの日か、宮跡の考古学的な検証が行われることを望みたい。−平成23年3月−