京都
高倉神社−綾部市吉美町高倉−
高倉神社
 綾部市吉美地区の山間に高倉という村がある。村は和名抄にしるされた吉美郷の内にある。由良川支流域の上流部にあり、高倉神社が鎮座する。社伝は、高倉神社の創は祭神・高倉宮以仁王に由来するという。
 源平の頃、丹波は後白河法皇の皇子高倉宮以仁王を奉じた源頼政の知行国であった。治承4(1180)年4月、以仁王が平家追討の令旨(りょうじ)を発すると、翌5月平清盛は追討軍を差し向け、「治承の難」へと事態は発展する。頼政は以仁王を奉じ宇治平等院の近くで以仁王と落ち合い宇治川で平家軍と合戦に到るが、頼政軍は形勢不利。頼政は自らも傷つき宇治平等院に入り自刃。以仁王は流れ矢に当たり薨去した。治承の難は平家追討の発火点になった点につき歴史の重要な転換点であった。
 一説によると、以仁王は落ち延びて大槻光頼らに導かれ頼政縁の丹波に入り、吉美郷里村で薨去したと伝えられている。翌養和元年9月、以仁王は里村から2キロ余の高倉に奉遷したというのだ。吉美郷は鎌倉時代に到ると、小幡(今の小畑町)とともに奈良・西大寺の荘園となり、室町時代には相国寺の塔頭常徳院領に伝領された。
 高倉の所在する丹波・何鹿郡の歴史をもう少し遡ると、延喜式神名帳に高蔵神社がしるされている。いわゆる式内社といわれる古社がこの地方に存在した。高蔵神社に物部の西坂、井倉の八幡宮、西保村の高蔵神社などを当てる者がいるが確証がない。
 吉美の高倉神社は以仁王との結びつきが強く、延喜式内社とみる者は少ない。高倉以仁王着場の故事と混淆された可能性が否定できず、かつ里村の式内社・御手槻(みてつき)神社との接近具合からそのように解されてきたのであろうか。
 高倉は古い時代から開け、校倉(あぜくら)のタカクラが存在するような奥まって神聖な土地ではなかったか。高倉が所在する吉美郷(多田)に周濠をもつ一辺50メートル、その規模において全国屈指の方墳「聖塚」が存在する。それらのことを考えると、当地は相当古くから開けた土地である。私市の円山古墳に匹敵する勢力をもつ首長がいた証であり、高倉こそ米を収納するタカクラが建つところであったに違いない。吉美郷の高倉神社こそ式内社高蔵神社ではないかと思われる。
 高倉神社の別称は「高倉天一大明神」、略して「テンイチ」さんとよばれ、近郷の人々の信仰をあつめている。同社の秋祭り(10月第2日曜日)に田楽の流れをくむヒヤソ踊りが奉納される。御渡もまた特異なものだ。吉美の御旅所(里宮)まで延々2キロ余、行列は続く。2時間がかりで午前11時ころ、神輿が里宮に到着すると、神事の後、境内でヒヤソ踊りが奉納される。田楽の流れをくむ輪踊りであるが、動きは静かなものである。その先端に穴をあけ、糸で連ねて首飾り状にした竹串をササラにみたて、横笛と太鼓の囃子で踊りは続く。神輿はこの地方では高津八幡社のそれに次ぐ最重量級という。獅子舞も出て、境内は賑やかなものである。丹波の伝統を失わず、高倉神社の秋祭りはよい雰囲気である。−平成20年10月−
高倉神社の秋祭り(平成20年10月12日)
高倉神社 里宮の桜馬場
里宮境内 ヒヤソ踊り
ヒヤソ踊り
ヒヤソ踊り ヒヤソ踊り