京都
古墳のある風景(私市きさいち円山古墳)-綾部市私市町-
私市円山古墳遠景 綾部市の西部に私市という町がある。由良川が町の南部を流れる田園地帯である。三百メートルほど東に支流犀川(さいがわ)との合流点がある。犀川流域には石原、豊里、小西、今田地区など稲作を主作目とし、茶の栽培が盛んな純農村地帯がひらけ、古来、農業生産の盛んなところである。その私市町から約20年ほど前、私市円山古墳(写真上中央部)が発見された。舞鶴若狭自動車道私市トンネルの建設途上の発見だった。
 私市は何鹿(いかるが)郡の域内にあって以久田野古墳群などの群集墳の存在でよく知られた地域。直径70メートル、高さ10メートル、造り出し部を設けた京都府下最大の円墳と甲冑など豊富な鉄製副葬品や墳墓をめぐる約1000個の埴輪列の発見は、由良川流域の古代文化へのロマンを大いにかき立てるものだった。円墳においてこれほど立派な埴輪の知見はそうあるまい。
 円山古墳の東方、数キロメートルのところに聖塚(方墳)(多田町)がある。施工法の異なる二つの古墳は発掘調査などからいずれも5世紀に築造されたという。かんがい技術や鍛冶、養蚕など大陸の進んだ文化がわが国に普及したころだ。この地方においても飛躍的に農業生産が増大し、首長墓が次々と築造されたことは古墳の分布図を見ると一目瞭然である。
 雄略記(日本書紀)に、「・・・一七年春、…土師連等に詔して、朝夕の御膳を盛るべき清器を進(たてまつ)らしむ。是に於て、土師連の祖吾笥(あけ)、仍りて摂津国来狭狭村、山背国内村・・・丹波、但馬、因幡の私民部を進る。・・・」としるされている。この記録から5世紀中葉のころ、吾笥によって何鹿郡私市、天田郡土師等の私民部(丹波史年表。昭和35年刊)から清器が献納されたことがわかる。部民制の成立は5世紀後半に置かれた品部を起源とするので私市の私民部は土師連等伴造の統率下にあった部民とおもわれる。
 その前年、「一六年冬…、漢部を聚めて、其の伴造者を定む。姓を賜ひて直と曰ふ。」と日本書記はしるしている。漢部(律令制下の漢部郷及び現綾部市の名称の起源。)が朝鮮半島から渡来した漢人の定住地のひとつであったことがわかる。
 さらに、円山古墳の北西約1キロメートルのところに旧何鹿郡佐賀村の内に佐須我神社という式内社がある。佐賀村は藩政期から明治にかけ行われた鉄山経営の痕跡がのこるところだ。周辺の鉄山の分布や祭神などから推して佐須賀神社は韓鍛冶(秦氏の裔か)の技術者集団が奉斎した社とおもわれる。
 私市円山古墳の墳丘に立つと眼下に私市、旧佐賀村、西方に目をやると由良川を挟み福知山市、東方に綾部市街を望むことができる。古代において円山古墳の周りは土器造りの民や新羅、百済など朝鮮半島から渡来し養蚕、機織、韓鍛冶などに携わる秦人や漢人などが住まいしたのだろう。それは夕月君などに率いられ大挙して渡来し入植した人々のみならず朝鮮半島から断続的に渡来し倭人と相協力して歴史を築いた時代があったことは全国の否、綾部の古社にこめられた韓語を解き明かすまでもなく明らかであろう。両国国民の理解によって遺伝子が解析される機会があれば私たちのルーツも科学的な証明を得るだろう。
 私市円山古墳から甲冑、直刀、胡籙(コロク。やなぐい)などの武具や鉄製農工具など多くの副葬品が出土している。被葬者の権力と財力を示して余りある。被葬者は倭の五王の1人、倭王武=雄略天皇のころ、県主(あがたぬし。律令時代の大領=郡司にあたる)ほどの地位を得た韓鍛冶の長の墓或いは何鹿郡ほどの県を治める丹波直一族の墓と考えることもできるだろう。

 氏姓制度の下、成務天皇の時代に国、県、邑の地方行政組織が整ったとされる。昔から存在した県主の有力なものは国造に、ある者は県主に認められたであろう。
 私市円山古墳が築造された5世紀ころ丹波に国造国がどれほど配置されたかわからない。数国存在した根拠がなくまた後年、丹波直を賜姓される豪族がいることから丹波は1国1国造の広大な領域を有する国であった可能性がある。つまり、丹波は数県で1国をなす小国が分立せず、律令制下の丹波より広く但馬の一部を包含する丹波1国に1国造が充てられたのではないか。古墳の規模から国造墓をおもうと今の丹後半島に所在する王墓級の前方古円墳群こそが丹波国造墓ではないだろうか。
 記紀に婚姻に係る天皇家と丹波の縁を示す記事が随分多い。一例を挙げると、神話時代から歴史時代に入るころ開花天皇の妃となった竹野媛や垂仁天皇の後宮に入り皇后となり景行天皇天皇を産んだ日葉酢媛命の父は丹波道主王、母は丹波之河上之麻須郎女である。丹波が超大国であったからこそ天皇家とそのような関係を築きえたのであろう。
 古墳が由良川の本・支流(犀川)の合流点近くに築造されかつ副葬品は当時(5世紀)、畿内の諸首長など有力豪族が埋納した武具セットとその種類、品質はきわめて近似のものも多い。私市円山古墳は後の律令制下の何鹿郡の版図を示唆し、三角縁神獣鏡を埋納した由良川下流域(後の天田郡)の首長にも対抗する権力を誇示した首長墓と考えられないか。
 古墳発見から20年、古墳は保存された。さらに今、そのルーツなど歴史の検証が関係者の喫緊の課題とされなければ市民は保存効果を実感することはできない。古墳の規模や副葬品の過小評価は丹波史に禍根を残しかねない。
 雄略天皇8年の条に、高麗に討たれそうになった新羅が任那に救いを求めたおり、任那王の要請によって倭の膳臣斑鳩(カシワデノオミイカルガ)が日本府行軍元帥(やまとのみこともちのいくさのきみ)となって新羅を助けた故事が記されている。膳臣の賜姓の経緯が景行記に記されているがその本拠地については何の記述もない。どうも大和の斑鳩ではなさそうである。丹波の何鹿(イカルガ)(郡)の呼称がいつころ生じたか明らかではない。一般的に倭名抄に記された地名が千年以上を経た今もそのまま伝わっているものが多く地名の変化はおこりにくい。雄略天皇のころ、膳臣斑鳩は当地を含む丹波を本拠地とした豪族であった可能性も否定できない。加えて記紀にしるされるとおり出雲、但東、丹波など山陰地方は渡来人並びにその後裔縁の伝説が広範囲に分布する。イカルガの地名につき渡来人の祖神と考えられる須佐之男命の子神五十猛(イカル)命に由来する名称と考えることできるだろう。神名帳考証によれば旧何鹿(イカルガ)郡内の綾部市所在の式内社である島万(しままの)神社及び伊也神社の祭神を五十猛神としており、案外この辺りに‘イカルガ’を説くヒントがあるように思う。
 私市円山古墳に近接する聖塚(方墳)の被葬者も私市円山古墳の被葬者同様に県主ほどの首長であったのだろう。円山古墳の被葬者と分け合うほどの勢力を持つ首長が二人、由良川流域の覇権を握っていたことは興味深い。
 私市円山古墳の被葬者は相応の地位を得ながら丹後(旧は丹波)の首長と違って前方後円墳の築造を拒み、特色のある巨大な円墳や方墳を築き得たのはいずれも渡来人の裔孫ゆえでなかったか。もっと積極的に考えれば古代何鹿文化は秦人や漢人など渡来人によって築かれた文化であり、渡来人文化が丹波でもっとも輝いていた時代ではなかったか。郡内の歴史につきさらなる検証が求められる所以である。
 この地方では50年ほど前、以久田野の開墾に伴って「以久田野古墳群」が発掘調査され、金属器など多くの副葬品が出土している。当時の保存処理の状況が定かでなく、大部分の出土遺物が現認できないもどかしさがある。
 私市円山古墳の出土遺物は綾部史資料館(綾部市里町久田)に展示されているので見学されるとよいだろう。
 秋の日、土手に倒れたヒガンバナの残骸に冷たい風が吹きはじめた。由良川では落ちアユのアユ掛け漁が盛期を迎えている。-平成21年10月-
        参考 : 佐須我神社の謎

由良川
私市円山古墳の出土遺物
  私市円山古墳 短甲
(「綾部の歴史と文化」より引用)
ニゴレ古墳短甲
韓国・池山洞古墳群32号墳出土の短甲
短甲
江田船山古墳
 私市円山古墳から武器、鏡、農工具など多様で保存状態がよい金属製遺物が出土した。特に鎧は、短甲と呼ばれる鋲でつなぎ合わせた胴甲に頸鎧(くびよろい)、肩鎧(かたよろい)がセットになり、腰回りに草摺(くさずり)を吊したと思われる金具がほぼ完全な形で出土した。それらに加え、 衝角付兜(しょうかくつきかぶと)、鏃(やじり)、矢入れの金具付き胡籙(やなぐい。コロクとも)が出土し、私たちは期せずして古墳時代の武人の姿をイメージすることができる。
 正倉院に納められ90領の鎧は東大寺献物帳から挂甲(かけよろい)とみられ、それは坂上田村麻呂の弘仁2(811)年作の木造に見る鎧のようなものであろう。私市円山古墳出土の鎧は短甲と呼ばれ丈が短いが挂甲よりはるかに重厚かつ大陸的である。
 私市円山古墳出土のそれと酷似する鎧が韓国の池山洞古墳群32号墳(慶尚北道高霊郡所在。写真左)から出土した。この鎧は肩鎧、兜の衝角と錣(しころ)が欠損しているが、胴甲の企画やデザインは私市円山古墳のそれと酷似している。出土地は、倭国が任那府(後年の倭館のようなもの)を置いた伽耶諸国中の大伽耶国(任那。高霊郡)であることに注目したい。伽耶は朝鮮半島南部の洛東江流域に展開する中小の国々からなる弁辰(弁韓)縁の国である。魏志東夷伝弁韓の条において、国(=弁韓)に鉄を産し、倭人らと交易を行っていることがしるされている。伽耶は地理的に倭国との交易に都合がよく、洛東江下流の狗邪国は帯方郡の使役が通ずる中継点ともなっていたことが魏志倭人伝からわかる。伽耶の東に新羅、西に百済が興っても伽耶諸国が統一されることはなく、諸国連合を成し、倭人の軍事的、政治的な後援を得て新羅や百済に抗する時期が続いた。朝鮮の歴史書に倭国が任那を統治した記述がなく、倭国の伽耶との特殊な関係はよくわからないが、貿易センター(商館)とも言うべき任那府を大伽耶国(任那)に置き、鉄てい等の調達を行う一方、倭国の軍団が駐留するところだったのだろう。伽耶諸国は倭国の政治的、軍事的な後援を得て、洛東江流域や以西へ新羅の進出を阻む一方、倭国は百済を後援し高句麗の南下を阻むため黄海道辺りにまで進軍し、広開土王(永楽王)と戦ったことが、広開土王碑から分かる。このように倭国は、4世紀末から5世紀初頭にかけ大いに軍事的政治的な力を発揮するが、次第に力を失い任那府も大伽耶国から伽耶さらに安羅へと移る。しかし、任那(府)の呼称はその後も使用され続け、記紀に掲載の任那の範囲がはなはだ不明瞭なものとなっている。
 私市円山古墳と同時期の築造とみられる丹後半島のニゴレ古墳(京丹後市弥栄町)から円山古墳と同型の短甲(写真左上)が出土している。また熊本県の江田船山古墳出土の衝角付兜及び短甲(写真左上)についても、形状やデザインが私市円山古墳出土のそれと非常によく似ている。池山洞古墳群32号墳、ニゴレ古墳、江田船山古墳、私市円山古墳出土の鎧兜の酷似は倭国と伽耶諸国との色濃い交流の歴史を投影しているように思う。それが倭産であったと即断はできないが、倭人が朝鮮半島に鉄を求めて往来したことが魏志倭人伝に特記されているので倭産の可能性は否定できないだろう。
 私市円山古墳に副葬された鎧兜等鉄製品の入手経路は不明である。しかし、さらに話を進めると、私市円山古墳に副葬された多くの鉄製遺物と古墳に隣接する何鹿郡佐賀村の鉄山の存在がそれを示唆するように、鎧兜等鉄製品は何鹿郡内に有力な製造工房が存在し、生産された鎧兜は倭国内はもちろん伽耶諸国に輸出された可能性も否定できないだろう。ニゴレ古墳に近い遠處遺跡から製鉄遺跡(5世紀末~13世紀)が発掘されているが、森林の状況等現地の立地から見て到底、旺盛な鉄器の需要にはこたえきれなかったようにも思われる。何鹿郡は森林の那、鉄ていの溶融に十分にこたえられる山また山がひかえている。
  倭国が軍事的、政治的に伽耶諸国を後援していた倭の五王当時の時代背景を考えると、武器に関する知見は伽耶諸国より軍事立国たる倭国が勝っていたと考えても不自然ではない。私市円山古墳の被葬者が身につけた副葬品は、天皇から賜されるか、或いは輸入したものでもなく、被葬者自らがそれらを生産し、大陸に雄飛し行軍した王であったと推しても不思議ではない。短甲のデザインはここから倭国各地に広がったとみることもできる。
 古くは磐井の乱、その後の藤原広嗣の乱の平定に際し、攻撃軍の主力は国軍ではなく大領や少領などの地方豪族であった。九州の豪族たちがヤマトから武器を調達していたとは思われない。同様に、古墳時代におけるヤマト王権の朝鮮半島への出撃についても、地方豪族が主力であったと考えられる。日本海は環海の高速道路だ。由良川を下れば若狭湾。円山古墳に立つと、目の前に、帆をあげ出撃する船影がみえるようだ。

 私市円山古墳から鎧兜ともに金銅張りの胡籙が出土した。矢入れの収納器である。写真(パンフ)から容器の形状がはっきりしないが胡籙を腰に吊るベルトが出土している。正倉院に33具の胡籙が納められており、ツヅラフチで編んだ白葛(7具)を例にとると平形と壺形の2種がある。壺形は靭とよく似ており、長さ55センチほどのツヅラフチに高さ12センチほどの矢入れの筒がついている(写真左下)。上部に矢束ねの革がつきその下に布を付し腰に縛るようにできている。私市円山古墳のものがどの形状にあたるのか不詳であるが、パンフの想像図から壺形胡籙が想定できるようである。金銅張りの胡籙をベルトで巻いた武人を想像すると、胡籙も奈良時代のそれと比較して重厚で大陸的である。鎧兜と同様に胡籙もまた佐賀村で現地制作されたものか。出土例がほとんどないとみられ、この点でも貴重なものだ。
     壺形胡籙  平形胡籙