京都の北部、綾部市に八田(やた)という地区がある。そこは標高100メートルから200メートルの山々のはざまはざまに由良川の支流・八田川が刻まれ、段丘上に小集落がひらけている。
そこは律令時代から在り、何鹿郡(いかるがぐん)八田郷と呼ばれたところ。八田川流域に島萬神社(八田郷。西八田・中筋)やその北西1.5キロほどのところに福田神社(上八田・福田)、さらに由良川との接合部(位田橋辺り)上手には御手槻(みてつき)神社(吉美郷。位田)など式内社が集中して鎮座する。そこは古墳時代前期から後期に至るまで方墳、円墳、前方後方墳、前方後円墳が連綿と築かれ、さながら墳墓の展示場のようだ。
丹後とともにこの地方の湿潤な気候は養蚕に適し、漢部郷や八田郷(いずれも綾部市)など何鹿郡内の村々は雄略記が伝える漢人などの定住地。当地の稲作や桑などの生産基盤を支えていたのだろう。その繁栄の証とみられる古墳が由良川やその支流の段丘などに数多く築造されている。漢人などの渡来の時期は、一般的にはヤマト王権の成立期から倭の五王の隆盛期に当たる五世紀末と考えられるのかもしれない。
しかしこの地方には弥生時代の方形周溝墓や高槻の東山1号墳(前方後方墳)の存在など古墳前期とみられる墳墓が存在する。それは築造の形式などが高句麗の葬送文化と相似形をなしている。弥生期から日本海を経由して韓人が盛んに渡来していた証ではないだろうか。何鹿郡のみならず山陰、若狭を含む一帯に葬送儀礼にとどまらず大陸と習俗を共有する環日本海文化ともいうべき民族の共存地帯があったといえないものか。
応神朝等における秦人の渡来はその規模等から国家戦略的な側面を感じさせるが、この地方への弥生期或いは古墳前期の渡来は大陸の政争、動乱のことごとに部族或いは家族単位に次々と渡来があったと考えられないものか。「イマキ」と発音する地名などは渡来が重なった手形と言えないこともない。綾部市内に記紀に描かれない史実があったとしても不思議ではない。正史の前には必ず前史がある。
明治28年、郡是製糸が発足し紡績業を始めると八田など何鹿郡内の農家は未墾地の開墾や綿・アワなどの栽培地を桑畑にすきかえ、綾部は一躍「蚕都」となり、郡内の養蚕家は4800戸(農家戸数の59%。大正14年)にも達した。創業者の克苦の気概と気象条件がいかに養蚕や紡績に適していたかがよくわかる。
八田は皇族の名に冠せられた地名として記紀にあらわれる。倭名抄や平城京出土の木簡に八田(部)の名がみえる。木簡は2枚発掘されていてうち1枚に「丹波国何鹿郡八田郷/戸主秦」とありもう一枚には「□□□□鹿郡八田里庸米六斗・○持□」と墨書されている(いずれも庸米などに付されら荷札。奈文研木簡庫のビッグデータから引用)。後者の木簡に庸米6斗とあり正丁、次丁に課された労役を米で償った(1人3斗)とみられるが車馬や船の輸送は認められていなかったので徒歩で平城京まで運んだのであろう。もっとも庸布で治める戸もあったのでこちらは米より軽量で搬送は楽でも織り上げるまでの労力をおもうと、農民は納税(物納)の選択も相当、思い悩んだものとおもわれる。平城京から出土した他郷の木簡(荷札)に谷田郷と記されたものがあるがそれも「八田」同様に秦の借字と考えられる。
「古事記」は仁徳天皇の妃を八田若郎女(やたのわかいらつめ)としるし、「日本書紀」は同女を八田皇女(やたのひめみこ)」としるす。異母兄である仁徳天皇の妃となった人でどうも八田から嫁いだ人ではないようである。
地名辞書によると倭名抄掲載の八田郷について、「いま東八田、西八田に分かつ」とあり現在の綾部市上八田町、下八田町に比定される。そうすると八田は仁徳天皇の妃である八田皇女(八田若郎女)の御名代・小代である八田部であったと考える向きもある しかし、宋書や百済記、日本書紀などの記録から仁徳天皇を4世紀末から5世紀前葉に在位した天皇・倭王讃(421〜430年に3回朝貢)に比定すると、八田皇女は倭王讃の妃であるから同時期に御名代・小代制が倭国に存在していたことになり不自然である。
八田郷は八田皇女の御名代・小代ではない。八田に住まいした秦人は中央のトモ(伴造)に率いられ、その統率下で蚕を飼い、米を作りその一部をトモに納める民であった。しかしトモが仁徳天皇の時代にか八田を皇室に施入し、伝領した皇女が八田皇女を名乗ったと考えられる。八田皇女がその施入を受けた八田からの納入米等について、御名代・小代との差異を示すことはできないが非御名代・小代であったことは了知しておくべきであろう。
御名代・小代制は5世紀半ばに設定され、刑部(允恭の后)、孔王部(安康)などの名が付された部民が存在した。8世紀に作られた川辺里戸籍(日本最古)などの断簡や平城京跡から発掘された木簡などからその存在が認されている。もっとも平城京が営まれたころ、すでに部民制は廃止されているが戸籍上、男系戸主は古い時代の所属を「部」で標記したのである。-平成20年8月- |