前原の加布里漁港の裏山から糸島半島の可也山の東麓に目を向けてみよう。嶋郡川辺里(現在の志摩町馬場、松隈を含む辺り一帯、写真下、左右)で、ぼんやり稲田を眺める壮年の男がいる。黄金に実った稲田に満足そうである。 |
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加布里漁港(前原市)から加也山を望む |
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川辺の里(中央公園) |
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男は川辺里の大領(郡司の長官) ´肥君猪手′ である。猪手の家族構成は、妻4人、子12人、孫10人、奴婢37人、寄口(きこう。親族や縁者)15人・・・など124人。区分田として13町6段120歩が与えられていた。大領に給された職田6町を加えると20町ほどの田を耕作していた。記録が残る8世紀の1家族の構成員数としては我が国最大規模の家族である。
郷里制下では、1里は50戸。1戸は平均約20人、1里の人口は1000人ほどだった。
奇しくも、大宝二年(西暦702年)の戸籍(筑前国嶋郡戸籍 川辺里)の断簡が正倉院宝庫に保管されていて、川辺里の肥君猪手などの生活環境が明らかになったのである(断簡:戸籍の裏面を再使用するため、任意の長さに切断された戸籍の紙片。川辺里戸籍は、造東大寺司に払い下げられたもの)。川辺里戸籍では、50戸の里のうち28戸分の断簡が復元された。
わが国最初の戸籍である庚午年籍が作成されたのは西暦670年。以降、大宝律令の施行までに6年ごとに戸籍調査が行われた。川辺里戸籍(写真左)は現存する最古の戸籍のひとつである。1行1名で記載され、戸口の配列は血縁順、各戸の終わりに口分田の総額がみえる。戸籍は課役、兵士の徴発、班田収受、氏姓の確定に使われた。里ごとに1巻とし、3通の写しを調製し、1通を国府にとどめおき、2通を都(太政官)へ送った。紙面の文字のあるところと紙の継目の裏に国印がある。戸籍は国司が発する調使によって都に運ばれた。戸籍文書の保存期間は30年。古い戸籍から順次、廃棄された。当時、紙は貴重であったから廃棄になると払い下げガ行なわれ、戸籍の裏面が再利用された。川辺里戸籍は造東大寺司に払い下げられたものが残っていたものである。大宝2年の戸籍では、筑前国(川辺里)のほか豊前国、豊後国、美濃国の戸籍が復元されている。
川辺里の戸籍中の肥君は、もともと熊本県八代郡火ノ村(宮原町)あたりを本拠地とする古族。筑紫君磐井が北部九州に勢力を保っていた頃、その勢力は肥(火)、豊の二国にもおよび肥君猪手の祖先は6世紀前半には嶋郡に入り国造の地位を得ていたのであろう。猪手の代を遡る欽明天皇の15(554年)年、筑紫の火君が一千の勇士を率い、当時、日本に入朝していた百済の恵(恵王)をミテ(海南島付近か)まで護送した記録が日本書紀にみえる。百済本紀は、筑紫の火の君について、筑紫の君の児、火中君の弟と記す。嶋郡の水軍を率いることもあった肥君。推古10(602)年には、撃新羅将軍来目皇子が嶋郡に駐留しており、嶋郡は対朝鮮半島の軍事政略上の要所であった。肥君の何らかの関与もあったのだろう。
川辺里戸籍は、大宝律令が完成した翌年に調整されている。新制の律令による大領(郡司の長官)の官名が肥君猪手に使用されるなど制度改正の地方への伝達速度は実に早いものだ。中国を手本にして、中国人等の帰化人、遣唐使経験者などを動員して律令を整え、着々と中央集権体制が確立されていく様子がみてとれる。
川辺里の故地は、郡司の政庁が存在したと想定される「志摩中央公園」辺りに比定されている。公園の隣に「志摩町歴史資料館(写真右上)」がある。資料館は考古資料を中心に展示、公開されている。志摩探訪の入口としてもよい施設である。九州西方沖地震により被災し、現在、復旧工事中。10月には再開される模様である。 |
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わが国の地方統治機構は、唐令を手本にし7世紀中葉から急速に整備が進んでいく。地方豪族である国造は8世紀初頭には大宝律令の施行によって郡領(大領、少領)の地位を得て地方支配の実質的な権威を継承する。
栃木県那須郡湯津上村に「那須国造碑」が現存し、笠石神社として祀られている。同碑の碑文は、持統天皇の治世に那須の国造で評督(郡領)に任ぜられた韋提という者の顕彰碑をその子意斯麻呂らが文武天皇の4年(700年)に建立したことを伝えている。韋提は追大壹(天武天皇制定の冠位48階の第33等)の地位を得ている。碑文の書き出しに永昌元年としるされており、韋提の任官は持統天皇の治世下である。しかしなぜ、撰文に日本の元号を使用せず唐の則天武氏の代の年号を使用したのであろうか。永昌元年は日本の元号では朱鳥4(689)年。天武天皇の崩御(朱鳥元年)後、元号が使用されなかったとも断定できず、不可解である。新井白石は、我邦はいつの世にも外国の正遡を奉じたことは絶対にないと主張し、朱鳥の字が剥落したとの見方を示しているが、史観の違いを感じさせる。日本書紀の持統紀に、下野国に新羅人14人が入った記録がみえ、あるいはこうした帰化人によって撰文が行われた可能性もあるだろう。いずれにせよ、国造の評督(郡領)への登用や国司の派遣によってヤマト王権の中央集権化は急速に進められていったのである。―平成17年9月― |