綾部市八田地区に中筋という町がある。由良川の支流・八田川流域にあって純農村地帯である。近くに茶臼山古墳(前方後円墳。全長54メートル。l)や岩王寺が所在する。丹波丹後を結ぶ街道(現在の国道27号線)まで直線距離で約2キロと近い。交通の便がよく古代には高い農耕文化が華ひらいていただろう。仁徳天皇の時代に八田皇女に伝領された八田部の中心こそ当地であったと思ってもみる。
この町に「島萬神社(しままのじんじゃ)」という古社がある。式内社(平安時代に編まれた延喜式神名帳に掲げられた神社)で千年余の歴史のある社だ。
毎年秋、島萬神社の例大祭で太刀振と太鼓踊が奉納される。仔細にはそれに小歌が加わり、都合三つの伝統芸能が二間四方の拝殿で演じられる。
平成28年10月9日、島萬神社の秋の例大祭を観覧した。神社の参道はかなり長い。社頭の鳥居から本殿まで約100メートル。午前9時、鳥居前から行列が往き、10分ほどかけて本殿境内に至る。間もなく拝殿でくだんの芸能が奉納された。都合40分ほどの芸能である。
本殿に向かって、拝殿の左端に小歌の詠者9人が座る。女性6人は着物姿、男性3人は羽織袴姿。祭の終局までに数曲の小歌を歌う。丹後の「花の踊」)では小歌に合わせ舞が伴うが、ここではどうも太鼓踊の囃子でもなさそうである。
太鼓踊の演者は拝殿石畳の左側に敷いた筵の上で踊る。演者は4人。うち2人は腹前に締太鼓を結び、1人は左わきに太鼓を抱える。3人の太鼓方はいずれも子ども(小学生)で手甲をして襷がけ、絣の着物にたっつけ袴、白足袋を履いている。残るT人は大人の演者で、絣の着物にたっつけ袴を着て、手甲、白足袋姿。陣笠を被り右手に軍配、左手に芭蕉(ばしょう)と呼ぶ竹の採り物を持つ。竹の上部に花などを描いた羽二重の旗3本を交互に取り
|
太鼓踊 |
付け、先端に榊が飾ってある。この採り物を持つ演者が祭りの主導者・シンポチであるようだ。シンポチは音頭をとりながら太鼓方の周りを左回りにゆっくりと歩む。太鼓方は音頭にあわせて足を前後、左右に動かし或いは立膝になったりしてテンテコテン、テンテコテンと太鼓を打つ。踊のテンポはゆっくりしていて、静かなものである。小歌は太鼓踊の囃子のような効果もあるだろうが太鼓方はシンポチの音頭によって踊っていて小歌と直には関係がなさそうである。太鼓踊は風流踊とそこから生じた念仏踊りの影響が色濃い芸能といえるだろう。
拝殿石畳の右半分の空間で太刀振が演じられる。こちらにも筵が敷いてある。筵は太鼓踊、太刀振それぞれの結界に示すもののようにもみえる。太刀振の演目は露払い、妻隠し、小太刀、野太刀、小長刀、大長刀の順に6曲。絣の着物にたっつけ姿、頭にシャグマの髷を着け、2人が1組になって互いに打ち合う。出番待ちの演者は拝殿右端に着座して控える。太刀振の冒頭、子供が演じる「振露払い」は、サンヤレと呼ぶ竹の両端に結んだシデ風の色紙を巻いた採り物を互いに打ち合って踊る。綾踊のそれである。採り物が小太刀から大長刀に変わっても採り物のシデが省略されることはなくサンヤレの原型がいきている。太刀振が風流踊の芸系である綾踊から発展した芸能であることがわかる。
舞台の芸能を観覧するほどに小歌は繰り返しになるが太鼓踊などの囃子効果は否定できないものの、太鼓踊や綾踊(太刀振)と密な関連はなさそうである。小歌もまた太鼓踊や綾踊と同様に風流踊の芸系から生じたものであるが、踊を欠いていて歌(小歌)のみが伝えられたもののように思う。
|
祭の行列 |
島萬神社の芸能はいずれも室町時代に生じた風流から生じ、それぞれ独立して演じられるようになった小歌、太鼓踊、綾踊の芸系といえよう。それは歌や音頭の歌詞、装束から江戸時代に完成したものとみられるが、それぞれの芸能が相和して私たち観覧者を有楽の世界にいざなってくれる。これほど多様な風流の芸系がよく保存されている祭はそうあるものではない。
少子化の影響から太鼓踊や太刀振の演者の確保が難しくなっているという。なんとか永く保存されることを祈るばかりである。−平成28年10月− |