京都は1000年の都。衣装の類はびっくりするほど古い形そのままに保存されている。時代祭の際、役者の選定に苦労しても衣装は簡単に揃うと思われがち。しかし生活着は時代とともに当然、色、形が変わることもある。年配の者には、ああでもない、こうでもないと繰言を一人呟き、祭を楽しむ機会でもあるだろう。
戦前、主に京都の北山方面から歩いて7、8キロ、京の巷で行商する女性たちがいた。たいがい中高年で、「はたのうば(姥)」と呼ばれたり、在所名をつけて大原女、白川女、桂女等々と呼ばれたりした。毎年、時代祭で行商着を着た大原女(小原女とも)、白川女、桂女の参加があり、行列に加わる。
(大原女) 戦後は終わったといわれた昭和時代、京の巷で見た大原女は美しく気品があった。彼女らもそれを意識しているように思われた。「黒木買わんせ、黒木召せ」と、頭上に、かまどでいぶした焚きつけの柴を頭に載せ、柴に山吹、椿など季節の花を添え売り歩いた。
旅人は「見てうれしきもの、八瀬大原の黒木売」と大原女を賞した。「黒木うり呼ぶとやんわりふり返り」とうたわれたり、「小原女の足のはやさよ夕紅葉」(蕪村)とうたわれたりもした。黒木を売り終えて大原女の家路の足取りはひとりでに早くなる。しかし頭上に30キロほどの黒木を載せ売り歩き、後ろから急に「おくれやす」といわれても無理はできない、自然とやんわりとした動作になる。蕪村は首がねん挫するくらい重い、辛い黒木売の苦しみを売り終え帰る様を‵足のはやさよ′で吹き飛ばしている。うたにも蕪村の年輪を感じさせる。
大原女は隠棲の建礼門院に仕え、京に出て黒木を売り生計を助けた阿波の内侍の後裔に任じてか気品があり、値引きはしなかった。「きげんよくまけずに帰る黒木売」(川柳)と揶揄されても大原女の気位は高かった。値切られてもまけず(負けず)に帰っていく。句の思いようは勝手次第。これもよい句だ。
大原女は御所染といわれる黒い掛襟のある木綿の着物を裾短に着て、紺地の白小紋の帯の上に抱帯を結び、その先を前に垂らし、前垂はしない。腰巻は白の木綿、手甲は白か黒、脛巾は白で前合わせにつけて白甲掛足袋に藁草鞋。手拭は歌絵の繍を入れ、四隅(端)に房を付けたのを頭に被り、腰にも下げる。襷はしない。その風姿は凛として隙がない。声をかけることさえ憚れるほど好ましい品位が漂っていた。
今日、京都の街中で大原女の姿を見かけなくなって久しい。着物の生地や縫製の技術的な事情からもはや着衣の復元は困難かと察しられなくもなくまた、色柄の変わりようにつき年齢相応に多様化に向かっているのだろう。基本は堅持されていてすっきりした風姿は美しい。
(白川女) 白川女は、白の手拭いを被った頭上の箕に色とりどりの花を載せ売り歩いた。時代祭の装束は、長袖の黒の着物に紺絣の三巾前垂。着物をからげて白の腰巻を出す。黒の手甲に白脚絆を前合わせに穿き、白足袋に藁草履。襷をかけ、肩に回した手ぬぐいを胸元で広げ風になぶらせる。戦前戦後のころ、白川女の着物は紺絣で三巾前垂と同色であった。しかし時代祭のそれはつるッとした黒の着物に見える。その一点を除くと昔の白川女の装束と同じ。清楚で美しい。
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白川の土地は西に開けた日当たりの良い台地を成し、もともと花がよく育つ土地。後白河天皇が「朕の意のままにならぬもの」の一つとして嘆いた鴨川の上流に当たるものの水害がなく、平安貴族の別荘が営まれた。時代祭の姿そのままに、白川女は頭上に花を積み、禁裏へ入場が許されたと伝えている。
紀貫之や定家、家隆など多くの歌人が白川の花を愛でうたった。定家は「春といへばさえゆく風に立浪の花にうづめる白川の里」とうたった。白川は風にそよぐ花に包まれる里だったのだろう。朝露に濡れた花一輪、洗面器に浮かべ白川を思うのも良い。
祭の行列を観つつ「はぁな、いりまへんか~、はなどうどすえ~」とうたいながら京の巷を売り歩いた白川女が浮かんで消える錯覚を覚える。
(桂女) 桂女に「春風にわかゆ(若鮎)の桶をいただきてたもとも辻が花をおるかな」(三十二番職人歌合)というのがあり、図書にも桂女に係る記事は少なくない。桂女は淀川の上流、桂川近在の在所から京に出て、鮎や飴(桂飴)を行商したという。しかし私は時代祭以外のところで、桂女が行商する姿を見たことがない。時代祭から桂女の風姿を見ると、着物の帯に抱帯を結び、その先を前に垂らし、前垂や襷をしないところは大原女と似ている。着物の丈は桂女の方が若干長く、膝下まで下ろしている。手甲、脚絆はせず、素足に草鞋。胸元に桶又は籠を抱いている。鮎や桂飴を売り歩いた。
桂女の特記すべきは頭に被った「桂包」であろう。白布を鉢巻き状にして端を蝶々にして前で結んである。平安時代など古い時代の絵巻物を見ると皆、ザンバラ髪か鉢巻様の帽子のようなものを被っている。女性は髷は江戸時代に普及する以前は髪を結うことはなく、前髪の垂れるのを防ぎ活動し易くするため布を巻いた。鎌倉、室町時代の絵巻物を見ると実に多様な鉢巻きや帽子様の被り物が描かれている。鬘包から転じて桂包となったという説があるが、桂包のスタイルが江戸時代以前に遡ると考えられ「鬘」と「桂」は時代の齟齬がある。
桂包の白布の由来ついて、「桂女の先祖は神功皇后の侍女。皇后が三韓出征のおり、お産を手伝ったよしみから皇后が締めていた岩田帯を下賜されたとか、その子応神天皇を守護神とした源氏の白旗の布」だとか天皇家との所縁を伝承している。雲をつかむような話であるが「安斎随筆」によると、桂女は豊臣秀吉の西国遠征にことよせ、戦勝祈願をしたことから秀吉とよしみを通わせ武家との因縁を深めた。吉事があると「桂(女)が参りて候…」と言上し祝言を唱え御祓いなどを行い、天皇家や公家、将軍家などともよしみを通わせ、江戸はもとより九州・島津家へも出かけて行ったという。(「山城名勝志」、「春湊浪話」)
桂女は桂川流域で伝統的に母系社会の風習(婿入り婚)を継ぐ家系の巫女的存在のエリートとして扱われ、強調されるあまり結局、江戸時代になると一般の桂女のイメージが薄れ、鮎を売る桂女は京の巷から消えたと考えられる。 時代祭にみる桂女の風姿は桂包を頂いているせいか凛として上品な趣がある。桂包は現代に伝わるわが国女性の、最古級の帽子といえそうだ。 -平成19年7月-
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