浄土寺−尾道市東久保町−
 尾道は、世羅郡甲山町を中心とした高野山太田荘の米やその他の物資の積出港として栄え、倉敷地には米蔵が建ち並び輸送船の舵取りや水夫が住みつき中世随一の港町として栄えたところだ。西国の他庄の廻船が寄航するようになり、尾道は問丸(廻船問屋)や船持などの内航海運の冨で潤い、山麓にひしめく寺院はそうした問丸などの冨により支えられ、盛時には数十寺院がひしめいたという。今日においても、歴史のある名刹が多く、伽藍や諸仏を丁寧に見て廻れば2、3日はかかるほど尾道は名刹に恵まれたところである。
 尾道の東辺に浄土寺という奈良西大寺の叡尊門流の古刹(写真上)がある。推古24年(616年)の創建。立派な山門は切妻造りの四脚門で本瓦葺。門をくぐると、境内右手に多宝塔(写真右手)がみえる。均整のとれた美しい塔は、高野山金剛三昧院と近江の石山寺のそれとともに多宝塔の白眉といわれる。多宝塔の手前から阿弥陀堂、本堂が連なり、丹塗りの伽藍が新緑の青山に映える。いずれも14世紀の建築物。境内に、寄棟の阿弥陀堂と単層入母屋の本堂、多宝塔がうつろう風景は本当によいものである。
足利尊氏と浄土寺
 正慶3(1333)年6月、鎌倉幕府が倒れ新たな時代を迎えた建武の中興によって後醍醐天皇は京都に帰り、天皇親政により綸旨を連発し諸施策が講じられることとなった。しかし、政策に新鮮味がなく、討幕に奔走した武士の期待を裏切り、「このごろ都にはやるもの、夜討強盗謀綸旨」(二条河原落書)と混乱をきたすようになり、失望した武士たちが足利尊氏のもとに集結するようになる。
 建武元(1334)年10月、護良親王が企てた尊氏打倒の策略が発覚し、親王は鎌倉に幽閉される。北条氏の残党が鎌倉を攻撃し、尊氏の弟義直は敗走。護良親王は殺された。尊氏は直ちに義直の救援に向かい、北条氏を撃破し新政権側の新田一族の所領を没収する。同年11月、尊氏は、諸国の武士に檄を発して公然と新政権に反旗をひるがえした。
 建武2(1335)年、尊氏・義直が新田義貞を追って上洛すると、後醍醐天皇は京都から脱出。しかし、尊氏は奥羽から上洛した北畠顕家軍に破れ、京都をのがれ九州に下って再挙をうかがう。西下の途上、尊氏は元弘の役(1331年)によって討幕に加わり所領を没収された武将に「元弘没収地返付令」を発し、中国・四国地方の守護の配置を決める。次に、建武3(1336)年、尊氏は備後ので日野資朝の弟・賢俊僧正に託された光厳天皇の院宣を受ける。院宣を受けたことによって尊氏は、後醍醐天皇対光厳天皇の戦となり、朝敵となることをまぬがれる。勢いを得た尊氏は九州で挙兵し、建武3(1336)年3月、博多東辺の多々良浜の戦で菊地武敏らの大軍を破り、東上する。
 長府で1ヵ月間滞在の後、尊氏は、建武3(1336)年5月、尾道の浄土寺で和歌会を催し、本尊に奉納。紙本墨書観音法楽和歌(一巻)が浄土寺に伝わる。
 尊氏は、尾道に寄航する4日前、厳島に着岸し、中国・四国地方の軍勢を集め東上の態勢を整えている。尊氏の厳島神社参詣は瀬戸内海の水軍に大きな影響を与えるものであったろう。尾道の吉和、吉和浦の漁民水軍は、尊氏軍に加わって九州に下り、尊氏が多々良浜の戦を制し東上する際には浄土寺において太鼓踊りを奉納し、鞆の津まで送ったと伝えられている。そのときの「吉和太鼓踊」は、今でも隔年に浄土寺で奉納されている。
 源氏の棟梁尊氏が西下した九州で旗揚げして再び東上し、建武3(1336)年5月、湊川で楠正成を降して暦応元(1338)年5月、征夷大将軍につくというストーリーは余りにも劇的である。戦略の才能が義経から尊氏へと脈打っているかにみえる。義経はわずか150騎で屋島の戦を制し平氏を滅亡に追い込んだ。尊氏が多々良浜で菊地氏ら九州勢と対峙したとき、九州勢2、3万に対して尊氏の軍勢はわずか300騎ほどであったとされる。戦略の上手さは、義経の純心さばかりではない柔軟な頭脳から編み出される周到な戦略で裏打ちされていたのであろう。窮して慌てず、いつも笑みをうかべ悠然としていたという尊氏だった。
  尊氏が浄土寺などで催した法楽和歌の催しは、
 尊氏(左)、直義(右)供養塔
 <浄土寺>
東国武士の粗野な印象を払拭するものであった。当時、流行していたものであるにせよ、尊氏のゆとりと素養をしめすのに十分であったろう。足利家は賜姓皇族である源氏の一流であり、また丹波上杉庄(現在の京都府綾部市)から下向した尊氏の生母上杉清子は藤原重房の孫という公家の出である。尊氏をしていつもそれらのことが脳裏を占めていたことであろう。尊氏が討幕に加わったのも、御家人制度が変質し得宗家の威信が薄れたから好機と考えたといような単純なものではなく、代々足利家にはよく知られた八幡太郎義家の置き文というものが伝えられており、鎌倉幕府において足利家が北条家の下に置かれていることにつき不本意なものと認識され、尊氏をして幕府打倒に駆り立てる深層をなしていたのだろう。
 浄土寺を後にした尊氏は再び鞆で軍議を開き、態勢をかため東上するのだった。尊氏が兵庫で楠正成の軍を破ると、義貞は退却。後醍醐天皇は比叡山延暦寺にのぼり京都を占領した尊氏と戦ったが、千穂忠顕、名和長年らが次々と戦死。後醍醐天皇が尊氏の軍門にくだり山を下りると、建武3(1336)年8月、後醍醐天皇は皇位を弟の光明天皇に譲ったのである。義貞は、皇太子を奉じて越前に落ちてゆく。建武の中興は3年で終わり、尊氏は武家政治の確立にのりだし、建武3(1336)年11月、室町幕府が成立し建武式目が制定される。
 しかし、建武3(1336)年12月、皇位を譲った後醍醐天皇はひそかに京都をぬけ、後醍醐天皇に味方する者が多かった吉野にかくれる。ここに南北二つの朝廷が並び立ち、南北朝時代を迎えることになる。南北朝時代には南朝、北朝がそれぞれの暦を使用し、南朝の古代的政権と北朝の封建的政権との戦が56年間も続くことになる。
 暦応元年(1338年)、尊氏は北畠顕家や同族であり宿敵となった新田義貞など南朝方の武士団を殲滅し征夷大将軍になると敵味方の菩提を弔うため、夢窓国師の勧めによって60余州に安国寺と利生塔を建立している。備後国の安国寺は鞆、安芸国の安国寺は現在の不動院(広島市)に建立された。浄土寺には利生塔が建てられたが、いつのころからか廃絶になっている。尊氏は生母上杉清子の故郷丹波上杉庄に安国寺を建立している。茅葺の立派な安国寺本堂や尊氏が産湯を使ったと伝えられる井戸が残っている。東国から遠路丹波に里帰りして、清子は尊氏を産んだと伝えられる。丹波安国寺が所在する綾部市と足利市は、清子と尊氏との縁から姉妹都市であるという。

 浄土寺は多宝塔や阿弥陀堂など仏教建築の宝庫であるが、石塔群も見逃せない。写真(下)の手前から宝篋印塔、納経塔等が並ぶ。宝篋印塔は高さ3.2メートル。南北朝時代の伊予・備南地方の代表的な塔。その右手の塔は高さ2.7メートル。鎌倉時代の代表的な納経塔。いずれも逆修の趣旨により造立されたもの。足利尊氏の供養塔(宝篋印塔)などもあり、浄土寺は宝篋印塔の宝庫ともいえる。
 浄土寺境内の東北隅の奥まったところにある板碑も見逃せない。紀年銘はないが室町時代のものであろうか。塔身は1メートル余。山形の頂部の下に一条線が入り、額部が設けてある。少し突き出た額部の下に半肉彫の阿弥陀如来像を置いている。部材は花崗岩。安芸、備後地方は、徳島や大分、福岡各県と比較して板碑の数は驚くほど少ない。50基にも満たないといわれる。この浄土寺の無名の板碑は、塔身が長いところは阿波、額部が突き出た形状は九州的である。この板碑もまた、逆修によるものであろうか。浄土寺奥の院にも板碑や石仏がある。
 浄土寺は、仏像や書画にも優れたものが多い。−平成18年6月−
参考:篠村八幡宮

多宝塔 板碑(左側)
参考:福岡の板碑
板碑の風景
手前から宝篋印塔、納経塔、宝篋印塔群

宝篋印塔のこと
 インドから天山、パミールを越え中国に入った仏像が朝鮮半島を南下してやがて日本の仏殿に納まり、暗幽とした空間で拝まれるうちにその微笑のなかにも日本的なるものが見出されてゆくように、宝篋印塔にもアジアの潮流に翻弄されながらもやがて新たな種子が芽吹き麗華の香りを放つようになる。
 インドの覆鉢塔に源流が求められる宝篋印塔は、中国で中国建築の影響を受けた原始宝篋印塔が生まれ、その影響下で法隆寺金堂四天王所持の塔など飛鳥・白鳳の塔が造られた。さらに、天暦10年(956年)、僧日延によって呉越王銭弘俶の金塔婆がもたらされ、さらに銭氏は八万四千の造塔を発願し各地に送っている。福岡の誓願寺の銭弘俶八万四千塔などがそれである。塔身上部の四隅に馬耳状の突起がある。以降、300年間のうちに宝篋印塔は隆盛の極点を迎えるようになる。鎌倉期がその盛りになるのであるが、その変化の態様は誓願寺の銭弘俶八万四千塔と比較しても明らかである。方形の台座に反花を彫り、方形の塔身の上に笠を置き、笠の四隅に突起を立て、笠の上部の段級上に相輪を立てる。こうして典型的な日本の塔が完成したのである。さらに、浄土寺の塔(写真手前、沙弥行円等4名の逆修塔)は、台座(基礎)と塔身の間に方形の受台を置き塔上下の安定感が増したものとなっている。真に美しいものである。大山祇神社の一遍上人の宝篋印塔3基中、中央のものが浄土寺のものと同形式である。


 参考
多武峰の板碑(奈良) 板碑のこと(奈良) 元興寺の甍(奈良)
板碑の風景(四国・徳島) 天王の板碑(京都) 浄土寺(広島・尾道)
建武の板碑(福岡・直方) 老樟と板碑(福岡・稲築) 福岡の板碑
石柱本字曼荼羅碑
(福岡・植木)
国東塔と板碑(大分)  板碑のこと