奈良
元興寺の甍−奈良市元興寺町−
元興寺の瓦屋根
元興寺の瓦屋根
極楽堂(本堂)
極楽堂(本堂)
 奈良の元興寺は、推古天皇の4(596)年、蘇我馬子が明日香に建立した日本最古の寺・飛鳥の元興寺(飛鳥寺)を前身とする寺である。
 和銅3(710)年、平城遷都にともなって藤原京付近の寺はみな新京に移ったが飛鳥寺だけは飛鳥にとどまり、南都に仮堂が営まれた。寺が新京に移ったのは養老2(718)年といわれる。寺域は猿沢池付近から花園町に至る6町四方に及ぶ広大なものであった。やがて寺運は衰退し、明治の廃仏毀釈のころには一時無住になったこともあるという。
 寺はいまなお、極楽堂本堂などの屋根瓦に飛鳥寺の古風をとどめている。日本書紀は、飛鳥の元興寺の屋根瓦は百済渡来の瓦博士によって葺かれたと説く。その屋根瓦は、遷都にともなって飛鳥から運ばれてきたものであろう。行基葺ともいわれる重厚な屋根は、元の方で細くなった丸瓦を重ねて葺かれている。今日、この種の屋根は法隆寺の玉虫厨子や、時代は下るが室町時代の宝塔寺多宝塔(京都市)の下層屋根の一部にみられるのみである。極楽堂西流れの色変わりした屋根瓦が、澄み切った青空になんともよいコントラストで南都の空に映えている。
 百済渡来の瓦博士が伝えた行基瓦の淵源を古代中国に求め、朝鮮半島に蓄積された瓦文化が本邦に伝播したものと思われるが、南欧州・地中海沿岸地方においてにおいて行基葺と推される屋根瓦を見出すこともできる。カルロ・レーヴィの著書「キリストはエボリにとどまりぬ」で知られるようになった南イタリアのマテーラという街の岩窟住宅においてそれと酷似する行基瓦が現存する。マテーラの瓦の起源はよくわからないが、多分、当地の開発の歴史などからして中国から伝来したものではなかろうか。そうすると元興寺の屋根瓦は、はるかユーラシアの古代都市と文化を共有し、ともに現住の建造物として存在するわけで、元興寺の瓦は極東の貴重な文化遺産といえよう。
 極楽堂(本堂)、禅室は、よく整った堂宇。自然石の礎石等がこの寺の古色を語る。極楽堂は寛元2(1244)年に改修された元興寺僧房の一部である。もとは浄土六祖のひとり智光法師の住房といわれる。浄土曼荼羅を本尊とし、浄土発祥の聖堂として聞こえた極楽堂は、末法思想が蔓延した中世の浄土信仰の中心地だった。境内に林立する二条線を刻んだ名号板碑は逆修或いは縁者の極楽往生を願った人々の信仰の証であろう。収蔵庫に納められた五重小塔(写真下、右)は、元興寺試みの塔といわれ、木造彩色の美しい塔である。−平成20年−

禅室 五重小塔 板碑