九州絶佳選
福岡
建武の板碑−直方市上境宮浦−

須賀神社

庚申塔
  直方市の上境地区に宮浦という集落がある。彦山川(ひこさんがわ)右岸の小高い丘陵に開けた集落である。遠賀川との合流点に近く、河川の要害地であり集落に須賀神社(写真左)が鎮座する。社は在郷の総鎮守として栄えた古社。861年(貞観3年)、境内に落下したとされる隕石が社家に伝わり、レプリカが境内に展示されている。猿田彦大神等の庚申塔(写真左)が数基ある。
  須賀神社の境内を回るように道路が通っていて、境内の南側道路の道端に小さなお堂がある。中に「建武三年丙子十月二日  明窓」と刻まれた板碑がある。板碑の部材は砂岩。上部に胎蔵界大日如来の種子(しゅじ、梵字)が配してあるが全体に風化が進んでいる。
  建武3年は西暦1336年。ちょうどこの年は、僅かな軍勢で九州に西下した足利尊氏が大友、島津、宗像大宮司、後に松浦党(水軍)などの援軍

建武の板碑

建武の板碑(お堂)
を得て、多々良川(現在の福岡市)の戦いにおいて、南朝方の菊池武敏、阿蘇惟明らの大軍を撃破した年に当たる。余勢を駆って東上した尊氏は、湊川で新田義貞を破り楠木正成を自害に追い込み、遂に1338年8月、征夷大将軍に任じられ室町幕府を樹立する。
 多々良川の戦による戦死者は六千余人。戦乱は筑豊などにもおよんだと伝えられる。建武の板碑は、戦勝後、尊氏が上野(あがの、現赤池町)の興国寺に退身していた南禅寺の明窓禅師に面会したさい、禅師に戦死者の供養を勧められ、禅師に善後を託して造立されたものと伝えられている。
  板碑は、逆修や追善供養、経典の読誦祈願の満了などの趣旨により造立される場合が多い。多々良川の戦いから7ヵ月後の造立というタイミングに加え、激戦地となった多々良川の故地(松島の地蔵堂、写真下)にやはり正平21年7月(南朝年号、1336年)在銘の板碑があり、建武の板碑は、伝承のように尊氏の西下による戦死者の供養塔ではないかと思う。松島の板碑は釈迦如来を表すバクの種子が配され、建武の板碑と比較するとかなり小型で簡素。南朝の年号銘であるところからこちらの方は菊池側の縁者によって造立されたものであろう。
 松原の米一丸地蔵堂境内に、五輪塔や多数の板碑がある。みな小型であるが珍しい二連板碑なども混在している。銘は風化し造立の経緯は不明であるが、探せば多々良川関連の戦死者供養の板碑もあるのかもしれない。太平記は、多々良川の戦いが日本史を変える天下分けめの激戦だったことを私たちに語りかけている。−平成17年4月−


松島地蔵堂の板碑

米一丸地蔵堂境内板碑

参考:
多武峰の板碑(奈良) 板碑のこと(奈良) 元興寺の甍(奈良)
板碑の風景(四国・徳島) 浄土寺(広島・尾道) 建武の板碑(福岡・直方)
老樟と板碑(福岡・稲築) 福岡の板碑 石柱本字曼荼羅碑
(福岡・植木)
国東塔と板碑(大分)  板碑のこと