福岡 |
福岡の板碑 |
福岡県下における板碑、庚申塔、宝塔等々、中世から近世の仏教信仰等を示す石造物は実におびただしいものがある。かつ今日においてもそれらは信仰の対象となっており、供養祭が行われ日々の供花が絶えることはない。このような福岡の人々の信仰心は、かつて多くの犠牲者をだした異民族の侵略や相次ぐ戦乱、飢饉の記憶が連綿として受け継がれ信仰を支える動機となっていることも否定できないであろう。
板碑は、己の生前供養の趣旨から造立されるものが多いのであるが、社会不安からの救い或いは戦乱、侵略により死亡した者への供養の趣旨から造立されたものもまた多いであろう。
北部九州は刀伊の入寇や元寇など大陸との関係においていつも緊張感を捨てきれずまた、多々良川の戦いなど国内戦の舞台となることも多く、在地の武士はもとより当地に流入する諸国の武士たちにとっても福岡は、あるときは華やかな都会でありあるときは地獄絵をみるようなところであろう。
末法思想が蔓延した平安末期には、貴賎を問わず阿弥陀仏に救いを求め極楽往生を願った。鎮護国家という宗教的背景が色濃く漂う時代から、次第に宗教が武士や農民層にまで開放されるようになると、飢饉や自然災害のみならず世上の社会不安にまで人々は仏道に救いを求めた。
福岡県下に存する板碑は、青石を部材として、山形の頂部に二条線を刻むという武蔵形式のものとは少し趣を異にしている。比較的大きく、自然石を用いたものや整形をしたものなど様々であり、部材も花崗岩(非青石)や砂岩質の石材、安山岩など多様である。板碑のサイズも幅や高さが2メートルにもなるものもみられ、山形の頂部や二条線、額部がないものなど、一般的な板碑の概念では捉えにくいものも多いが板碑として観念されている。設置の場所等の形態についても、廃寺或いは古刹、お堂周りに建っているものが多くかつ、「南無阿弥陀仏」など名号を刻んだものはなく種子(しゅじ)或いは地蔵尊の造刻のみのものが多いように思う。もっとも、青石ではないが、山形の頂部、二条線の入った板碑も米一丸地蔵堂や観世音寺、戒壇院などで見ることができるが、みな小型である。多分、福岡では前者の系統のものが古く、後者のものは他国から伝えられたものであろうか。
造立の趣旨は同じでも武蔵、阿波、国東、九州と各地でそれぞれ形状を異にし、かつ混在する不思議はどのように考えらよいものか。私は板碑に共通するところが多い種子(しゅじ)に注目してみたい。それには流行のようなものあって、ときに阿弥陀如来であったり大日如来などであったりするが、そういう様式の原初がどこかにあるばずである。そして、それを諸国に伝播させる集団なり僧や修験者といった廻国の者が存在したのではないだろうか。私は、直方市植木町の観音堂にある延久二(1070)年在銘の石柱梵字曼陀羅碑に注目する。私はひそかにこの曼荼羅碑こそが板碑の祖型ではないかと思っている。遠賀川の流域に存する板碑は造立年代が古く、原初型を偲ばせるものが多く、宗像の鎮国寺の板碑もその外延部にあるものとみたい。
県下の大型の板碑には、元寇襲来時に亀山天皇が「敵国降伏」を祈った祈願石の脇に建つ地蔵菩薩像板碑(福岡市冷泉、写真左下)や康永三年銘の濡衣塚の板碑(福岡市千代、写真下中央)、直方の建武三年銘の建武の板碑(直方市、写真右)、須恵の正中二年銘梵字板碑(須惠町、写真右下)、武蔵寺(ぶぞうじ)の貞和3年(1347年)銘梵字板碑(福岡県筑紫野市、写真左上、高さ3メートル余)などがある。小型の板碑は、松島公園(地蔵堂)の正平二一年銘梵字板碑や多々良川にほど近い米一丸地蔵堂の境内(福岡市東区町松島)、飢人地蔵堂(福岡市博多区千代)、観世音寺、戒壇院などに実に多くの板碑が残っている。米一丸地蔵堂の板碑は、10基を下ることはあるまい。−平成17年5月− |
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地蔵菩薩像板碑
(福岡市博多区) |
康永三年(1344年)銘
梵字板碑
(福岡市博多区) |
正中二年(1324年)銘
梵字板碑
(須惠町) |
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正平二一年(1366年)
銘梵字板碑(福岡市東
区町松島) |
米一丸地蔵堂境内
(福岡市東区町松島) |
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