九州絶佳選
福岡
筑前植木の町−直方市植木町−

JR植木駅

七鬼神庚申塔

石柱梵字曼陀羅碑

聖人堂
 植木の町は、筑豊平野のほぼ中央に位置し、遠賀川の流域に開けている。昭和30年に直方市に編入された。JR筑豊線の筑前植木駅(写真左)の東側一帯が住宅地。街中を歩くと、新築の家屋が建ち並ぶ町のイメージとは対照的に、古色をとどめる遺蹟が実に多いところだ。辻々に庚申塔が祀られ、観音堂や地蔵堂や神社、祠が町を埋めている感じすらする。日吉神社の境内や町内の辻に「七鬼神庚申塔」(写真左)がある。鬼神と銘のある文字塔である。江戸期に造立された全国にも類例のない珍しいものだ。
  植木の横町の観音堂には延久2(1070)年在銘の石柱梵字曼陀羅碑(写真左)がある。玄武岩製の角ばった石柱で、高さは87センチ、厚さは21センチ。正面の上部に阿弥陀如来をあらわすキリークの種子(しゅじ)を置き、その下部の左右に観音菩薩と勢至菩薩をあらわす種子を刻し、阿弥陀三尊を表現している。裏面は胎蔵界、金剛界をあらわす両界梵字曼荼羅を刻し、延久二年の銘がある。石柱に厚みがあって板碑の範疇外におかれているが、板碑の祖形をなすものと考えられないものか。宗像の鎮国寺に日本最古の板碑(阿弥陀如来坐像)が現存する。造立は元永2(1119)年。石柱梵字曼陀羅碑の造立が鎮国寺の板碑より50年ほど先行しているわけで、私はこの石柱梵字曼陀羅碑を板碑の祖形と考えるのだが。
  植木町下町の聖人堂(写真左)に、厨司に入った空也上人木像が祀られている。高さ48センチの木像であるが、像刻は室町時代を下らないとされる

空也上人像(安長寺)

獅子頭(千光院)

大蘇鉄(千光院)
古いもの。貝原益軒の筑前続風土記に空也上人堂(聖人堂)を中心とする寺中の記述がある。空也を始祖とする念仏踊りを伝承し、九品念仏を唱え地方を巡回した時代もあったのである。空也上人像はそうした念仏衆によって祀られてきたという。江戸時代になると歌舞伎役者や人形遣いに転じ、植木役者として知られ西国一円を巡業したが、明治時代に廃絶となった。植木に伝わる三申踊りは、念仏踊りの流れを汲む伝統芸能とされている。
 植木は、近世においては赤間街道の宿として栄えた。植木の天満宮放生会の大名行列などにそのなごりをとどめている。平成17年の放生会は9月23〜25日の3日間(大名行列は中日)。町内から5基の山笠が出て華やかなものだった(写真下)。
 遠賀川の河口部に所在する芦屋町も寺中町があったところ。芦屋の安長寺石文は、空也上人の供人を祖先とする念仏衆が慶長10(1605)年、藩主の御茶屋跡付近の地を賜って寺中町を形成したとしるしている。芦屋の念仏衆は、植木の念仏衆と同様に江戸時代に九品念仏からやがて歌舞伎役者に転じた。芦屋役者として全国的に知られた存在だったが明治時代に廃絶。植木や芦屋の人々が津々浦々に残した歌舞伎の種は、村芝居の興隆に大いに貢献したのである。芦屋の安長寺に空也上人像(写真右上)や守り札の版木などが保存されている(参考:松山・浄土寺の空也上人立像)。芦屋の千光院には、雌雄一対の獅子頭(写真右・中)など寺中関係資料が伝えられている。
 芦屋町に伝承されている「はねそ」(盆踊り)は、江戸時代にはじまったいわれるが、植木町の三申踊り同様、念仏踊りに淵源があるとされる。番傘をさして盆踊唄が唄われる。同様の例が愛媛県西予市三瓶町の皆江地区の盆踊り(歌舞伎くずし)にみられる。踊り方は、芦屋の「はねそ」の方が皆江の歌舞伎くずしよりよほど素朴である。
 千光院に残る蘇鉄(写真右下)の巨樹は、主幹約4メートル、樹齢400年余。島原の乱に出陣した芦屋の武将が原城内から持ち帰ったものと伝えられる。日本三大蘇鉄の一つに数えられる。
`植木の放生会
 遠賀川流域の肥沃な平野は、古代から人々が住み栄えたところである。古代、中世における人々の信仰生活を示す石仏や塔、板碑などが筑豊地域全域に分布している。鎮護国家を旨とする古代仏教は貴族の精神世界を支えてきた。しかし、平安時代の中期ころから荘園の整備やその管理等をめぐる法制の整備が進み、農民の領主への抵抗権が認知されはじめると、仏教は次第に力を蓄え始めた武士や農民の心のよりどころとして浸透し始める。空也上人や法然、一遍などはそうした時代に生き、山から町へ下り、全国を行脚して民衆の教化をはかりつつ土木事業を興し、民生の安定に生涯をかけた人たちである。浄土教は、聖徳太子の妃橘大郎女によってつくられた天寿国曼荼羅繍帳や法隆寺金堂壁の弥陀浄土図などによって知られるように奈良時代から存在した。しかし、布教という点では、平安時代に至っても市井の人々に交わり説く者も少なく、空也の出現を待たなければならなかったのである。鎌倉時代の人一遍をして空也の先しょうを追うとして布教を始めたのも空也の存在の大きさを示すものであろう。
 筑前など北部九州は、藤原純友の天慶の乱(940年)や刀伊の賊(1019年)に襲われるなど内憂外患の政治的余波をもろに受けつづけた。加えて11世紀の初頭には末法思想が蔓延し人々の苦悩は極点に達し、ひたすら信仰に救いを求める者もいたであろう。空也の供人を祖先とし当地に定着した念仏衆は、九品念仏を唱え諸国を巡回し、そのような寺中の宗教活動を通じて、阿弥陀三尊を刻むなどして追善供養を行い板碑の文化なども彼らによって諸国に伝えられることもあったのではなかろうか。
 遠賀川流域や博多など北部九州には、石柱梵字曼陀羅碑のように板碑の祖形と思われるものや朽ち果てた無銘の板碑が実に多いのである。−平成17年−

 参考:
多武峰の板碑(奈良) 板碑のこと(奈良) 元興寺の甍(奈良)
板碑の風景(四国・徳島) 浄土寺(広島・尾道) 建武の板碑(福岡・直方)
老樟と板碑(福岡・稲築) 福岡の板碑 石柱本字曼荼羅碑
(福岡・植木)
国東塔と板碑(大分)  板碑のこと