九州絶佳選
長崎
島原一揆(原城址)−南有馬町−

(原城址)
 1637年(寛永14年)10月、島原半島の口の津付近で発生した農民一揆はたちまち天草諸島に伝わり、天草四郎時貞を総大将にして農民1万4千人余が大矢野島で蜂起した。弱冠16歳の総大将に率いられた天草勢は天草で戦った後、島原に向かい島原の一揆勢と合流し、一揆の勢力は3万7千人に達した。同年12月、一揆勢は、廃城となっていた島原の原城(日暮城、写真上)で籠城する。
 一揆がおこる20余年前、江戸幕府はキリシタン禁令を強め教徒の弾圧を強化し、天草を治めた唐津藩、島原を治めた松倉両藩の厳しい徴税に飢饉が重なり一揆へと発展したのである。
 事の重大さに慌てた幕府は、板倉重晶、次に老中松平信綱を島原に派遣し、鎮圧に12万4千人もの兵を投入。1638年2月28日、幕府軍の総攻撃によって一揆勢はすべて討ち死し、未曾有の惨事となったのである。乱後、江戸幕府は鎖国令を発布し、諸外国との国交を断絶、3年後に天草は天領となった。
 原城の本丸跡に四郎時貞の墓碑や像が建っている。一際高い壇上の白い十字架は、平和への祈り。城周りの野辺のシロバナタンポポは天草・島原一揆の鎮魂花であろう。城跡回りは一面、グリーンの畑。まもなく本丸で桜の花が咲きはじめる。 −平成18年3月−