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普門院 |
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市川集落 |
福岡の庚申塔は文字塔が大半である。青面金剛像を刻む像刻型のものはなぜか敬遠されたようである。福岡県杷木町の普門院境内に像刻の庚申塔(写真右)があるが、福岡では大変珍しいものである。佐賀県富士町の市川集落で像刻の庚申塔(写真右)を目にしたがこれも例外的であり、九州では文字塔が主流になっている。
九州はもっとも大陸に近いところ。博多や長崎に通じる道は、海道とともに重要視された。旅には危険が伴う。神道では、道案内の神は猿田彦大神。道祖神として道の辻や集落の出入り口など悪霊が潜むと信じられたところに立てられた。庚申信仰はもともと道教の影響を受けたものであるが、道の辻などに潜む悪霊退散の願から仏家は干支の申が猿に通ずるところから庚申尊天(或いは庚申天)を祭った。いずれにしても、福岡の庚申塔は、猿田彦も庚申尊天も文字塔である。
福岡県下における庚申塔の分布は濃密である。特に、筑紫野市(写真左)、太宰府市、春日市、前原市等における庚申塔の分布は実
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筑紫野市 |
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基山 |
に濃密である。博多のような都会においても道の辻や寺社境内にずいぶん残っている。博多区堅粕の地禄神社や山王公園内の地蔵堂、東光院の境内、道端などに庚申塔がある。地禄神社の境内では神道系の猿田彦と仏道系の庚申天が混在している。庚申塔はもともと辻や集落の出入り口に立っていたのであるが、明治期に国策によってそれらを神社境内等に集めるよう指導された経緯がある。しかし、庶民の信仰は国策によっても制しがたいところがあって、辻などにそのまま残っているところも随分多い。佐賀の基山で見かけた庚申塔(写真右)は3メートルを超える大きなもの。これほどのものになると移動させるのに困難が伴うため、辻から動かすことができなかったのかもしれない。それほど大きなものである。
庚申信仰は、江戸時代に隆盛を極めた。61日目に一度巡ってくる庚申の夜に、香川県の多和の辺りでは
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若八幡神社 |
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厳島神社 |
体内から三尺(サンシ)の虫が抜け出て悪事、特に男女間の悪事を天に告げるという素朴な俗信から、虫が抜け出ないようにお堂に籠って徹夜する風習(「庚申待ち」という。)を生んだ。例年、9月の博多大歌舞伎で演じられる通し狂言「三人吉三巴白浪」は、庚申の宵にはらんだ子は盗癖があるという俗信を悪用してお嬢吉三など三人の盗賊を生み出し、これに因果の綾を縦横に絡ませた仕立てになっている。庚申信仰は江戸期を通じて大変盛んであり、講組織を結成し、さまざまの願掛けをして夜っぴて飲食するという楽しみも伴っていた。筑紫野市など郊外の町では、宿の回り持ちによって庚申待ちが現在も行われているところもあるようである。
庚申信仰は今日ではほとんど廃れてしまったが、満願になると庚申尊天或いは猿田彦大神の文字塔を造立する風があった。筑豊の嘉穂郡辺りにはそうした習慣があり、郷土史家の香月靖晴さんは「・・・庚申塔造立の趣旨は種々あろうが、庚申の会を18回終えると、満願成就として立てることもあった。・・・」と指摘されている。稲築町山野の若八幡宮(写真右上)や同口春の厳島神社(写真右上)の境内に、庚申の会が造立した庚申塔が建てられている。西国では奈良辺りにも庚申塔は認められるが、概して九州や四国地方ほど多くはないように思う。
北部九州における民間信仰中、恵比須信仰もまた特異なものと思われる。大宰府、二日市(筑紫野市)など街道筋のお堂や路傍に恵比須神の姿を線刻した石像がずいぶん多い。恵比須神は商売繁盛の神であるから、宿場町などで信仰された。恵比須神と同系の事代主命を祀っているところもあるがこちらの方は文字塔である。太宰府市の古老いわく、「恵比須様は自治会の組単位で祭っております。三日恵比寿といいまして、毎年12月3日の日に祭りをします。」とのことである。九州で恵比寿神(石像)が最も濃密に分布するところは佐賀県。約一万基の恵比寿神像がある。長崎街道の宿場町との縁が深いのであろう。佐賀市内の八戸町界隈の長崎街道沿いに実に多くの恵比寿神が祭られている。JR佐賀駅のホームにも恵比寿神が祭ってあるので、ご覧になるとよい。−平成17年− |
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庚申塔 |
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庚申尊天
(太宰府市) |
猿田彦大神
(春日市) |
庚申天
(筑紫野市) |
恵比須神 |
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恵比須神
(大宰府市) |
事代主命
(筑紫野市) |
恵比須神
(大宰府市) |
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参考 : 九州の庚申塔 明日香の庚申塔 庚申塔(庄原市) 庚申コンニャク(大阪市) 丹波の庚申塔 槇川の庚申さん 出石街道の庚申さん 北近畿の庚申信仰 |