大阪の四天王寺の近くに天王寺庚申堂がある。北野の太融寺の庚申堂とともに大阪市民の庚申信仰を支えるお堂である。戦前戦後を通じて、庚申の日には参拝客で溢れ、お堂の周りには庚申コンニャクとコンブを売る店が建ち並び、元祖を競っていた。戦災で焼けた天王寺の市街にあって、庚申堂はいち早く復旧し、参拝客で賑わった。
庚申信仰は、もともと、人の体に上、中、下の三尸(さんし)の虫が宿っていて、60日に1度廻ってくる庚申の夜に体内から抜け出て、その人の罪過を天帝に告げると、天帝はその人の寿命を奪う霊力があるという中国の道教の所説が信仰のもとになっている。
したがって、守庚申、庚申祭或いは庚申待ち(講)に集まった者は、三尸の虫が体内から抜け出て天帝に悪事を告げられ、天罰によって早死することがないよう一睡もせず夜明けを待ったのである。
庚申講の節目などには、庚申の本尊である青面金剛像や庚申の「申」にことよせて見ざる、聞かざる、言わざるの三猿の像を石に彫り込んだり或いは神道では天孫を案内したという記紀にしるされた猿田彦が庚申信仰と結びつき猿田彦大神と刻んだ庚申塔を建てる風もあった。江戸時代ころから庚申待ちが行われる地区のお堂周りや道の辻にはこうした庚申塔が盛んに造られるようなった。四天王寺の庚申堂の境内には、板碑、笠塔婆などの庚申塔が十数基あり、猿が彫り込まれたものが多い(上下の写真は四天王寺の庚申堂の庚申塔)。17世紀から20世紀にかけて造立されたものであるが、最も古いものは寛文10(1670)年の銘がある。
庚申信仰の根本には諸相があって、大阪では拝むとお金ができるとか、どんなことでも一願を叶えてくれるという信仰を生み、庚申待ちの日に庚申さんが天降るのでお迎えするのだといってワイワイ言いながら、庚申堂の境内で庚申待ちをしたのである。お詣りができない者はコンニャクとコンブのお土産を家庭で待っていた。今日でも、庚申の日には境内に庚申コンニャクの出店が立ち、京都の八坂庚申堂でもコンニャクを食する風がある。北向きになってコンニャクを食べると無病息災が叶うといい、関西の諸堂ではそのような光景を目にするのである。
ところで、この庚申コンニャクを北向きになって食べる件につき考案者がいて、雑誌で告白されている。辯咲美志という人で、「大阪辯」(大阪ことばの会編。昭和26年7月発行)という雑誌で「庚申こんにゃく」の題で紹介されている。辯咲氏は戦前、東平野町1丁目で割烹料理店をやっていた竹内という家の縁者であるらしかった。はじめ、辯咲氏が四天王寺の庚申堂に竹内の者と連れ立ってお詣りした際、冗談半分に、「コンニャクは北を向いて食べな願が利けへんのやで」とやった。皆が間に受けて、北を向いて食べた。お参りする毎に、ほかの方を向いている者がいると、「北を向かなあけへんがな」と笑いながらやる。「ア、そや」と、その人も笑いながら北を向く。しまいに、コンニャク屋までもが、「北向いてお上がりやしたら願が利きますのや」というようになり、昭和になるとコンニャクは北を向いて食べるものと相場が決まった。北野の太融寺の庚申堂が北向きであったので、辯咲さんが庚申コンニャクを食べる向きに結びつけたということである。
その他、江戸などでは庚申の夜には夫婦の交わりを禁じ、間違ってしまうとできた子は盗賊になるという俗信までできた。歌舞伎の「三人吉三」はそうした俗信からストーリーが出来上がっている。大近松の「心中宵庚申」は、嫁と姑の反目から庚申の夜に八百屋のお千代と半兵衛夫婦が生玉の大仏勧進所で心中するストーリーであるが、こちらのほうは心中と庚申信仰を絡ませたものである。 |