槇川の庚申さん−かがわ市多和−
■ 志度寺、長尾寺を巡拝し、遍路道を十数キロ辿り、多和町の助光から国道377号線を道なりに3キロほど東に歩むと四国88箇所の結願札所・大窪寺に至る。譲波から矢筈山(標高788メートル)越えの険しい遍路道を避け、多和の助光から槇川を経由して大窪寺に向かう道である。もっともバス、タクシーなどは、道路事情から助光、槇川を通り大窪寺に向かう。
■ 助光から377号線を東に進み、槇川の在所に入るとT字路がある。道なりに進むと阿波、左折すると大窪寺に至る。不案内の遍路は間違って阿波方面へ向かう者もいたのであろう。槇川の人々は、T字路に大小の道標を建て大窪寺へと遍路を導いたのである。さらに、槇川の人々は、念仏講を組織するなどして、結願寺・大窪寺への道筋に「丁石」を寄進し、大窪寺の門前に一際立派な道標を建て、遍路への配慮を忘れることはなかった。
■ 大窪寺へ向かう槇川の路傍にコンクリートブロックで囲ったお堂がある。庚申塔(写真左)を祀り常夜灯が2基ある。庚申塔は1.5メートル、四国で一番大きな塔である。庚申信仰は悪病悪霊退散や道中の安全祈願などの趣旨jから江戸時代に最盛期を迎えるのであるが、この庚申塔が庚申堂に祀られていたものか或いは道端にあって遍路道の安全を祈願(庚申塔は道祖神信仰と重なる)したものか、仔細よくわからない。
 土地の人が「庚申さん」と親しみを込めて呼ぶこの庚申塔は、実に大きく立派なものである。天部に傘状の深いレリーフがあり、中央に青面金剛を配し邪鬼を踏みつける構図。金剛さんの怒髪は天を衝いているが、なんとも庶民的な顔つきがいい。槇川の人々は、庚申さんにとびきり大きく斬新なモチーフを寄進者に所望したのであろう。
■ 多和は阿波境の幹道の村。阿讃の村々は庚申塔の宝庫である。多和から阿讃山脈を越えると美馬郡の村々や阿波池田にいたるが、吉野川左岸沿いの集落を歩くと道路端や道路の辻、神社の境内などでずいぶん庚申塔を目にすることができる。庚申塔の多くは国策によって明治期に整理され、神社や寺に集積された経緯があるが、阿讃の村々では路傍に多くの庚申塔が残っており、みな青面金剛を刻んだ像刻塔である。庚申塔には青面金剛や猿などの像を陽刻したものや庚申天、庚申尊天、七庚申、南無阿弥陀仏、猿田彦大神等と刻んだ文字塔があるが、この辺りで文字塔を見かけることはほどんどない。
 多和の庚申塔は自然石を用いて、天部に深い切り込みのある様式が一般的である。

多和の風景山頭火歌碑 野を越え山を越え、多和から大窪寺への遍路道は山頭火も歩んだ道。 ”もりもり もりあがる 雲へあゆむ” この句は、この辺りの峠道によく似合う。美しい山河を眺め、道端の山頭火の句碑(写真左)などを鑑賞しながら阿讃の山裾を遍路するのもよいものである。−平成16年6月−

結願の寺(大窪寺)
庚申信仰
 庚申信仰は、平安時代ころから公家の間で普及してゆく。十干と十二支であらわされる干支を重要視するのは五行思想に基づく陰陽道も同じであり、道教にその淵源を見出すことができるとする説もある。陰陽師による物忌みなどの信仰が民間に浸透し始める延長線上に庚申信仰もあったのかもしれない。藤原道長の御堂関白記など摂関家の日記などを読むと、貴族の日々の生活が陰陽師の占卜によって多くの禁忌をうみ、がんじがらめになっていたことがよくわかる。そうした貴族社会の物忌みの風がしだいに一種の娯楽として受け入れられるようになり、江戸時代に至って庶民にまで爆発的に広まったのであろう。それはまた、庚申の「申」が天孫を高千穂に案内した日本神話の猿田彦大神に通じるところから、庚申信仰は道祖神信仰と重なりつつ隆盛をもたらすことになったのだろう。庚申塔が道の辻などに祀られているのもそうした信仰と結びついているのである。
 江戸時代になると庚申信仰は農村部にまでひろがり、盛んになる。仏式では青面金剛を中央に配した像刻塔を造り邪鬼や野菜を刻し、神式では猿田彦大神などと陰刻した文字塔を造立した。四国でみられる庚申塔はたいがい像刻塔である。九州では文字塔が主流であることを思えば、地域における一種の流行のようなものがあるのだろう。
  讃岐の多和に、「話は庚申さんの夜にせい」という言葉がある。話が長くなかなか本題をしゃべらない人に投げかける表現法である。庚申信仰はもともと、人の体に上、中、下の三尸(さんし)の虫が宿っていて、60日に1度廻ってくる庚申の夜に体内から抜け出て、その人の罪過を天帝に告げると、天帝はその人の寿命を奪う霊力があるという所説が信仰のもととなっている。したがって、庚申待ち(講)に集まった者は、三尸の虫が体内から抜け出て天帝に悪事を告げられ天罰によって早死することがないよう一睡もせず夜明けを待ったのである。多和では罪過を男女の悪事とみる風もあった。庚申の日は、男女の共寝を忌み、この日に子供を孕むと将来、大盗賊になるという俗信や、金気を避けて針仕事などをしないなどといった様々な俗信がうまれた。歌舞伎の「三人吉三巴白浪」は、そうした共寝の禁をあえて破り、お嬢吉三など三人の盗賊を生みだすストーリーになっている。江戸庶民にまで庚申信仰は浸透していたのである。
 庚申待ちは、忌月(正月、5月、9月)の庚申の日に行うところが多かったようである。庚申信仰は素朴な信仰であるが、庚申待ちの夜はながい。庶民は、庚申講を組み、会食などしていわばレクリエーションとして庚申待ちを楽しむこともあったのである。
 全国に庚申堂、庚申社は多い。庚申信仰の普及に大きな影響を果たしたが、とりわけ日本三庚申といわれる四天王寺(大阪。写真下)、八坂(京都。写真下)、入谷(東京)の庚申堂は庚申信仰の本山のようなところ。庚申縁起が伝えられ、庚申信仰の核をなしそこから各地に伝播するうちに諸説が形成されていったのだろう。西洋暦の導入に伴って庚申信仰は衰亡し、すでに入谷の庚申堂はなくなった。四天王寺庚申堂は青面金剛童子を、八坂庚申堂は青面金剛を本尊とし、奈良朝時代にまで遡る古い歴史があり、今なお参詣者が絶えないところである。八坂庚申堂では、いまも庚申待ちが行われている。

四天王寺庚申堂
四天王寺庚申堂 四天王寺庚申堂
八坂庚申堂
八坂庚申堂 八坂庚申堂

参考 : 九州の庚申塔 明日香の庚申塔 庚申塔(庄原市) 庚申コンニャク(大阪市) 丹波の庚申塔  槇川の庚申さん 出石街道の庚申さん 北近畿の庚申信仰