福知山市の北部に谷村という集落がある。村は修験の山・三岳山麓に所在.。由良川の支流・谷村川の段丘にひらけ、出石街道が集落の中を通る。背後には三岳山(839メートル)が聳えている。5月の連休中、山田にトラクターが入り農家は田植えに余念がない。
谷村の集落を過ぎた出石街道は、村の鎮守・小和田神社の石段下を通り、路傍に享保9(1724)年記銘の庚申塔(写真上手前)が立っている。自然石の中央部を舟形に彫り窪め、一面六臂の青面金剛を配し、右手に鉾、矢、宝剣を持ち、左手に宝輪、弓、索を持つ。身に条帛をかけ裳を着けた姿。舟形の上部に日月、中央部左右に猿のレリーフがあり、この石像が庚申塔であることがわかる。
谷村の庚申塔は不動尊と並び祀られている。道中の安全祈願や講中の逆修を込め街道脇に建てられたのだろう。像容は享保18(1733)年に造立の雲原(福知山市大江町)の庚申塔(写真左下@,A)と似ている。谷村からほど近い出雲街道上の久畑(兵庫県出石郡但東町)にも安永4(1775)年造立の庚申塔(写真右下)があるなど一連の庚申塔群をなしている。18世紀中葉、庚申塔の像立を駆り立てたこの地方の民俗に思いを馳せねばなるまい。
谷村、中佐々木は三岳山、雲原は大江山山麓の村。天座川で画される両山は近接し、これら秀峰の麓に村々はある。地区地区の稲田が美しい。こうした美しい自然への畏敬は修験道に通ずるのだろう。高野山、比叡山に生じた密教は、全国各地に存在する、美しく険しい山岳の回峰を通じ得られる神仏への接近を人々に許容した。三岳山における蔵王権現信仰もそのひとつ。遅くとも室町時代には蔵王権現信仰が生じ、修験のメッカとして三丹(丹波、丹後、但東)の山伏が集ったことであろう。
中世におけるこの地域は、蔵王権現の神宮寺(金光寺。密教寺院)を核として衆僧や地下衆が結束し、信仰の火を灯し続けた地域であり、その結界と庚申塔の分布地域が一致し、像容も酷似する。これは密教信仰の延長線上に庚申信仰が生じたことを示している。人々は講を組み、地区の御堂に阿弥陀仏或いは不動明王などを安置し、導師の巡回を受け、庚申待ちを行い時には、先達に導かれ大峯山に或いは北大峯(鷲峰山(標高685b))の回峰に向かったことだろう。地区内の密教寺院や集落の路傍に先達の供養塔が残るところもある。
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雲原(天座)
の庚申塔@ |
久畑の庚申塔
(手前) |
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雲原(天座)の庚申塔(明和年間)A |
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近畿地方は西日本では庚申塔の少ない地域。しかし、丹後や奥丹波、但東など北近畿は比較的多くの庚申塔が遺存する。
北近畿には、@福知山市の上佐々木や中佐々木(谷村)、A同市大江町の雲原や橋谷、B綾部市の於与岐(およぎ)や西坂、山家などの集落で比較的まとまった庚申塔が確認できる、庚申塔の形式は、@花崗岩などに青面金剛を浮彫りした像刻塔や「庚申」或いは「庚申供養塔」等の文字を刻んだ文字塔が併存、A部材は自然石に青面金剛を刻んだものや舟形の整形石にそれを彫ったものなどが混在、B像刻塔における邪鬼や日月、猿、鶏の存否は塔により様々であるが、日月、猿は大方の庚申塔に付置、C庚申塔の発生は室町時代とみられるが、北近畿における造像は江戸時代中期から明治時代にかけ造立され、18世紀に集中的な造立が行われた、等の特徴がある。
像刻塔に表現された主尊をみると、六臂の青面金剛のみである。かつ庚申塔の塔面に日月、猿が刻まれている。鶏の配置例は少なく、また邪鬼を配する塔は知る限りでは橋谷(福知山市大江町)の1例(文化7年造立)のみ。主尊青面金剛の儀軌は陀羅尼集経によると四臂であるが、北近畿或いはその他の地方の庚申塔を含め六臂の像がほとんどである。三宝荒神(六臂)と混交したと解釈することもできる。三宝荒神は荒乱憤怒の形相で暴悪を懲罰するので荒神と名付けられ、三宝すなわち仏法僧を擁護する神である。三宝荒神は鎌倉時代から世俗にはおくどさん(竃)の神として庶民に支持され、身近な存在であった。密教の布教手段として庚申さんの主尊・青面金剛も三宝荒神にならって四臂から六臂に置きかえられたのではないだろうか。八坂庚申堂、大阪天王寺庚申堂の青面金剛御影はどちらも六臂である。
北近畿の庚申塔の立地をみると、三岳山や弥仙山など古来、修験道で栄えた山麓の村々に遺存する傾向が認められる。庚申信仰と山岳信仰(密教)との密接な結びつきを示唆しているように思う。
丹後や奥丹波など都から遠く離れた地方において、東国や四国の庚申塔ともさほど変わらない形式を整えた庚申塔が存在する。その理由は一体、何であるのか。洛中の八坂庚申堂や比叡山の山王権現(日枝神社)がその牽引力となり普及したのではないかと思う。
八坂庚申堂の青面金剛御影を見ると、持物や邪鬼、猿などを含め諸所の庚申塔(刻像塔)の在り様は結局この御影に行き着く。北近畿の像刻塔は八坂庚申堂の青面金剛御影と比較して青面金剛の肢体、持物が簡略化され、邪鬼や蛇が省略されるなどこの地方の特有が認められる。怒髪天を衝く青面金剛の憤怒の様相や蛇などはこの地方の人々の嗜好に合わなかったのだろう。
庚申塔は室町時代から造立されるようになり、その主尊も変遷を経て江戸時代になると釈迦、帝釈天又は猿田彦神など一部の例外を除きほぼ青面金剛に統一される。「諸儀軌訣影」に‘青面金剛を庚申の本尊と為すは天台家より出でし様なり’と注目すべき記述がある。それ以前の古い時代の庚申塔に山王廿一社権現の種子(しゅじ)などを刻んだものが東京都・日輪寺(元亀4(1573)年造立の板碑)等の東国にある。塔面の主尊が山王権現から青面金剛に遷移しても山王権現の神使である猿は庚申塔に引き続き刻まれたものと考えられ、そこにもまた比叡山の影響を滲ませている。庚申塔に附置される鶏は大阪の「天王寺伽藍記」の庚申堂の条から青面金剛の従者とされるもので、主尊青面金剛の必置の動物となる。日月の像は相当古い時代から塔上部の左右に配されている。庚申信仰が月待ち・日待ち信仰と習合したものであろう。
庚申信仰は道教を淵源とし、「続日本紀」に奈良時代に庚申待ちを示唆する記録があり、平安時代には「菅家文章」などから明らかに庚申待が行われていたことがわかる。時代の変移とともに密教や陰陽道、民間信仰などと習合しつつ、室町時代になると大日如来や阿弥陀、山王権現(種子)などを石に刻み、信仰が具象化されていく。庚申信仰のかたちがわかりやすくなると、庚申信仰は庶民にまで急速に浸透するようになり、人々の生活を左右するほど影響力を持ちはじめる。人々は講を結成し、60日に1度巡ってくる庚申の日に宿となるべきところに結集し、青面金剛御影の軸をかけて拝み、夜っぴて酒食をとり、延命長寿を願った。寝てしまうと人の体内にいる三尸(さんし)の虫がその人の体から抜け出て罪過を天帝に告げられ早死にするという道教の教えがあるから、講の者は一睡もせず三尸の虫の脱出を防いだのである。講の者は庚申待ち(守庚申)を幾度か重ねた節目に庚申塔を建て、後生の安楽に逆修の願をかけた。庚申信仰は実に長い歴史がある。その積み重ねの歴史が庚申塔の様式を豊富化させていったのだろう。−平成23年4月− |