遠賀川を遡り、飯塚を越えさらに南に向かうと稲築という町がある。町の中央を流れる遠賀川の左岸に口春という地区がある。地区の住家は少し高くなったところにあり、地区内に‘三郎丸の大樟(クス)’が茂っている。樹高15b、幹回り4.3bの巨木。村人がこの木にいたずら河童を縛りつけ懲らしめたという伝説がある。その大樟の樹下に高さ1メートル余の板碑が2基立っている。樟の根が板碑に絡み、板碑はもはや抜きさしならないほど樟の根は太く成長し、板碑の古さを示しているようにみえる。
大樟のそばに由緒書きがあり、板碑は明暦年間(320年前)に造立されたものと記されている。板碑は砂岩質の岩石であるらしく、経年劣化によって2基とも頭部が欠け、造立趣旨等の在銘の存否すら確認できないほど風化が進んでいるが、塔の上部に薬研彫りとわかる種子(しゅじ)が配してある。大樟に向かって左手の板碑の種子はキリーク(阿弥陀如来)、右手の板碑もおぼろげながらキリークと思われる陰影があるがはっきり読み取れない。向かって左手の板碑は、遠賀川流域の宮浦(直方市)の‘建武の板碑’と石材、様式ともよく似ているように思う。
筑豊は足利尊氏の西下に伴って一時期、戦場となることもあったと伝えられる地域。この板碑もそうした戦乱と無関係ではないのかもしれない。いずれにしてもこの一角は、観音堂が建つ新千手88箇所第84番札所。人々の信仰の場となっている。古色の漂う静かなところである。−平成17年8月−
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