九州絶佳選
福岡
観世音寺の春−大宰府市−
 大宰府の都府楼の東に観世音寺という古刹がある。クスの木立ちに囲まれて金堂、講堂、宝蔵が鎮まっている。
 観世音寺は中大兄皇子(天智天皇)の初願の寺。新羅遠征の途上、朝倉の橘広庭で崩御した母帝斉明天皇の冥福を祈るため建立された寺。途中、壬申の乱などが起り、西暦662年から実に80余年の歳月をかけ完成した寺は玄ムを導師として落慶した。方三町の境内に七堂伽藍や戒壇院を備え、奈良の東大寺に匹敵する大寺院であった。仏門をめざす九州の学徒はみな観世音寺の戒壇で受戒した。戒壇院は今、観世音寺から別れ独立した別の寺院となっているが、下野の薬師寺、大和の東大寺の戒壇とともに日本三戒壇の名をほしいままにしたのである。
 二度の兵火によって、観世音寺の堂宇は灰塵に帰し、諸堂の礎石、梵鐘、天平石臼などが大刹のよすがをいまに伝えるのみである。梵鐘は、京都妙心寺の鐘とともに日本最古の最勝の梵鐘である。憶良も旅人も道真公も朝な夕なに聞いた鐘だ。柳原白蓮が、長塚節が詠った名鐘だ。境内に長塚節の歌碑がある。 
 宝蔵に祀られた5メートルにもおよぶ馬頭観世音立像、十一面観世音菩薩立像等の巨像群が往時の寺の荘厳さを物語る。春の日、観世音寺の周りに菜の花やキンボウゲの花が咲き、春霞がかかる春の野に園児が躍動し、遠い日の観世音寺が移ろってゆく。 
 手を当てて鐘は尊き冷たさに爪叩き聞くそのかそけさを 
                            <長塚節>
 かねのねはいにしへに聞くひびきあり観世音寺にあきの風ふく
                            <柳沢白蓮>
 造観音寺別当に沙弥満誓(笠麻呂)という人がいた。観世音寺の開山。在俗中に木曽路を開き土木事業などに腕を振るった能吏であった。任期が大伴旅人、山上憶良と重なる時期があり、小野老、大伴百代らとともに筑紫歌壇を飾った一人である。゛しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは着ねど暖けく見ゆ<満誓>゜などの歌がある。
 玄ムは阿倍仲麻呂、吉備真備らとともに中国にわたり、18年間唐で暮らし、帰国後中央で権勢を振るったが失脚し、745(天平17)年、造観世音寺別当に左遷された人。旅人、満誓が大宰府を去って十数年後に入府した人だ。翌746年、玄ムは観世音寺の落慶法要の日に亡くなった。藤原弘嗣の霊力によって殺されたと伝えられる。戒壇院の裏手に玄ムの墓があり、石碑に宝篋印塔のレリーフが彫られている(写真下)。鎌倉時代に作られた供養塔といわれる。
 大いに栄えた官の大寺も天正15(1587)年、九州遠征で大宰府に入った豊臣秀吉によって寺禄を収奪され、以降衰退の一途を辿るようになる。
 観世音寺本堂の左手前に十数基の板碑がある。碑の上部に二条線が彫られ、高さ20センチメートルほどの小さな板碑も含まれている。戒壇院にも同種の板碑があるがいずれも風化が進み、種子、願文などは判読できない。筑紫の板碑は、武蔵寺や大乗寺跡の地蔵菩薩板碑など大型のものと米一丸地蔵堂や観世音寺等でみられる小型のものが並存している。造立年代や造立の趣旨の違いによるものか。小型の板碑は、筑紫に散ったもののふの供養塔であるのかもしれない。−平成17年4月−

梵鐘

玄ムの墓