九州絶佳選
福岡
多々良浜哀歌−福岡市東区松島−
 博多湾に注ぐ多々良川が博多の東辺を流れている。市街を貫流する那珂川、御笠川の東に位置し、古来博多の要害となる川である。元寇(文永の役、1274年)では、多々良浜に上陸した元軍は箱崎、博多に迫り、日本軍は大宰府の水城まで後退を余儀なくされたところである。日没が迫り元軍が軍船に引き揚げると、博多湾に突風が吹き荒れ元軍は退散。事なきをえている。
 建武3年(1336年)、京都から敗走し九州で軍勢の立て直しを図った足利尊氏が、菊地、島津、大友らの在地勢力と激戦をまみえ、室町幕府を樹立する勝機を得たのも多々良浜の戦いにおいてであった。死者約六千人に及ぶ大惨事となった古戦場は、いまの松島の辺りである。流通センターの入り口付近の古戦場の跡地に碑が建ち(写真右上)、鎮魂の兜塚などがある。今日なお、忘れえない悲しみとして地区の人々によって慰霊されている。
 松島小学校近くの松島公園の奥まったところに地蔵堂がある。土地の人がお地蔵さんと呼ぶ祠であるが、祠の中央に玄武岩製の板碑が祀られている。地元の人に伺うと、例年7月に供養祭をするのだという。板碑に正平21年(西暦1366年)の銘がある。板碑の下部がかけており建立の趣旨がわからないが、南朝の年号が使われており、尊氏に討たれた九州勢ゆかりの者が供養したものであろう。九州は、尊氏が東上後も南朝が永くを勢力を保ったところだ。
 多々良川に程近い米一丸地蔵堂の境内には、実に多くの板碑がある。種子が刻まれた板碑は10基を下ることはあるまい。風化が進んでおり銘が読めないが、多々良浜に散った戦士の供養塔もあるだろう。


地蔵堂の板碑 地蔵堂 兜塚
参考:安国寺(京都・綾部) 篠村八幡宮(京都・亀岡) 浄土寺(広島・尾道) 等寺院(京都)