京都
篠村八幡宮(足利尊氏旗あげの地)−亀岡市篠町篠上中筋−
 亀岡市篠町に「篠村八幡宮」という社がある。保津川の流域に開けた亀岡は、律令時代の丹波国の中心地。国分寺が置かれ、延喜式内社の桑田神社や鍬山神社が鎮座するところ。この亀岡市街の東、国道9号線沿いの篠町に「篠村八幡宮」が鎮座する。同社は延喜式内社に選定されておらず、平凡な社地は当地の古社ほどの歴史もなかった。本社八幡宮縁起によれば、延久3(1071)年に勅を奉じて河内誉田八幡宮の神霊を勧請したもので、翌年5月に源頼義が参籠したと説いている。少しできすぎの感なしとしないが、吾妻鏡によれば、篠村はもと平重衡の所領であったが、後に源義経に与えられたものを源氏の累族で源満仲八代の後裔である京都松尾の延朗上人が知行するようになったようであり、源氏縁の土地である。そうすると、八幡宮が鎮座する理屈に適うのであるが、当社から遠からず、保津川の対岸北方に所在する国府の八幡ではなかったと思っても見るがはっきりしない。しかし、この社は、わが国の歴史において、国運を左右する事績に遭遇した社であることはだれもが否定できないであろう。
 元弘3( 1333)年4月、鎌倉幕府の射手として上洛した足利尊氏が篠村に陣地を築き、同年4月29日八幡宮の楊の梢に源氏の白旗を掲げた。社に「敬白 立願事」の書き出しではじまる願文が蔵されている。願文は、[右八幡菩薩者、王城之鎮護、我家之廟神也・・・]と八幡菩薩尊崇の由来を述べる。尊氏は氏神の宝前で運命の先兆を祝し、感極まったことであろう。さらに願文は、「・・・為利民、為救世、被成綸旨之間、随勅命所挙義兵也、然間占丹州篠村宿、立白旗於楊木本、彼木之本、有一之社・・・伝々」と挙兵の大義を述べ、白旗を掲げて必勝を祈願したことを述べる。そうして尊氏は目前の老いの坂を越え、洛中の鎌倉幕府の拠点六波羅を攻めた。探題北条仲時らは、光厳天皇と二上皇を奉じ鎌倉をさして落ちていく。同月、北条得宗の高時は鎌倉の東勝寺において郎党数百人とともに自刃し、鎌倉幕府は滅亡した。
 幕府の射手であったはずの尊氏が天皇方につき、篠村八幡宮に必勝祈願し、六波羅を攻め落とした。建武の中興が成り、中興の元勲と仰がれた尊氏。願文を掲げた篠村八幡宮の冥護に祈謝したことであろう。建武2(1335)年3月、僧理智円を篠村八幡宮別当職に当て、免田3町を寄せ、同年9月には上総梅左古の地を寄進している。翌建武3(1336)年には丹波佐伯荘地頭職、観応2(1351)年には同国佐々岐荘等を寄進して、別当職に醍醐三宝院僧正を当てている。三宝院僧正は尊氏の新任厚かった賢俊僧正である。尊氏の護持僧であったから篠村八幡宮の社運隆興はとどまるところがなかったであろう。尊氏直筆の三宝院僧正宛文書(写真右下。醍醐三宝院蔵)がある。篠村八幡宮の別当職に賢俊僧正を当てるいわば辞令書であるが、文書は「丹波国しの村の八幡宮別当しきの事もとのごとくくわんれい候べくあなかしこ 観応二 十月廿六日  尊氏(花押) 三宝院僧正御坊」の意であるが、特にかな文字から尊氏の性格をおもうことができ、この書状は大変貴重なものだ。尊氏の庇護のもと篠村八幡宮は数々の社領の寄進を受け大いに発展し、貞和5(1350)年8月には、尊氏自ら社参し、別当坊で行水し、浄衣に改めて参拝し、賢俊着座のもと諸神事が行われたことが三宝院文書にみえる。
 話をもとに戻すと、幕臣尊氏が六波羅を攻め落とすという変心につき、足利家の置文に注目する必要があろう。足利家は河内源氏八幡太郎義家を先祖に戴き、足利荘に居を定めた義家の孫義康を創とする。足利家に義家の置文なるものが伝えられていて、「われ七代の孫に生まれ代わりて天下を取るべし」としるされていたという。尊氏の祖父に当たる家時が足利家七代目に当たる。しかし、家時は置文の実現可能性なしと覚り、「わが命を縮めて三代のうちに天下を取らしめ給え」ともう1通の置文をこしらえ、八幡大菩薩に祈願して、自害し果てた。足利一族の今川了俊がこの置文のことを難太平記でしるし、本人は実際に置文を見たといっている。了俊はその他の著作においても偽りのない執筆態度をとった人であることを思えば確かに置文は存在し、尊氏以下一族の重い十字架であり続けたことであろう。そうすると、足利家は当時の悪党と呼ばれる武士らとはまったく異なる宿命を背負っていたわけである。尊氏の生母上杉清子の尊氏への思い入れも尋常なものではなかったであろう。清子は公家の娘でその領地であった丹波上杉荘(現京都府綾部市)に住まいし、足利に下向した人のようであるから、尊氏にとって丹波は母の郷であり、安らぎと覇権への闘志をかきたてる所であったに違いない。その丹波の喉仏に篠村八幡宮は所在する。
 さて、幕府滅亡後、諏訪大社の神官頼重に養われていた高時の二子時行が建武2(1335)年7月、反乱を惹起させ鎌倉を占拠(中先代の乱)すると、京を発ち鎌倉に軍を進めた尊氏は時行を撃退し、そのまま鎌倉に居座り、後醍醐天皇の帰京命令にも不服従の態度を示す事態となった。尊氏は鎌倉幕府打倒の最大の功労者でありながら、征夷大将軍という武門の最高権力者には後醍醐天皇の皇子護良親王が任じられていた。新政権は、尊氏の鎌倉奪還は勅許を得ない賊徒の行動とみなし、尊氏の帰京を命じたのである。護良親王のもとで鎌倉奪還が可能であったか否か、尊氏は初動の葛藤に悩みながら時行追討を決断したのであろう。尊氏の建武政権への失望感は日増しに高まっていったに違いない。鎌倉に座して動かない尊氏に対し、新政権は同年11月、新田義貞に尊氏追討を命じるのだった。尊氏は翌12月、鎌倉を発ち上洛を目指す。天皇方は敗退を重ね、建武3(1336)年1月11日、尊氏が入洛すると後醍醐天皇は比叡山に避難する事態となった。尊氏軍は市街戦には不慣れであったようであり、都をとったりとられたりして10日余り経った建武3(1336)年1月27日、京から兵を引き丹波から播磨方面へ退き、途中光厳天皇の院宣を獲得して九州において再起をかけることとなった。同年3月2日、博多の多々良浜に菊地武敏を破り、東上の途につき、同年5月25日湊川の戦において楠木正成が戦死、後醍醐天皇は再び比叡山に避難し、尊氏は光厳天皇を奉じて入洛、東寺に陣取った。尊氏は同年9月に建武式目によって政治方針を示し、後醍醐天皇方の北畠顕家、新田義貞ら重臣が戦死し、建武3(1336)年11月、ついに三種神器は後醍醐天皇から光明天皇に渡され、翌12月後醍醐天皇は吉野に脱出し、暦応元(1338)年8月、尊氏は待望の征夷大将軍に任じられ、ここに室町幕府が成立。それはまた南北朝時代の幕開けであり、南朝方は吉野を拠点に以後50年余にわたって上洛をうかがう時代が続くことになったのである。
 篠村八幡宮の境内に立ち、境内地近くの尊氏旗揚げの楊の木(写真左下)のもとに立つと、国中の覇権を夢みた尊氏が宝前に額ずき、おうようとして老いの坂を越え上洛する姿が目の前に浮ぶようである。−平成19年11月−