八幡太郎義家−大阪府羽曳野市通法寺字御廟谷− |
羽曳野に通法寺という地区がある。石川の右岸、壺井八幡宮の鎮座地として広く知られたところである。
壺井と呼ばれるこの地区は河内源氏の起居したところ。その祖源頼信が平安時代の末に河内国司として着任して以来、その子頼家、孫の義家の栄華の跡を香呂峯や氏寺である通法寺の遺址に偲ばせている。寺はいま、山門、鐘楼をとどめるのみ。夏草に覆われた鐘楼の彼方に河内三代の鎧姿が目にみえるようである。
義家は石清水八幡宮で元服した縁から「八幡太郎」と名乗った。前九年の役では陸奥守に任じらた父頼義とともに土豪安倍氏と戦った武将。風雪に阻まれ、一時は黄海において安倍貞任軍に大敗し戦死が伝えられるほど苦戦したが、出羽の土豪清原武則の援軍を得て、康平5(1062)年、安倍氏の柵を次々と落とし終に厨川柵を陥れ、安倍氏は滅亡した。河内源氏の嫡流義家が再び陸奥守となったのは永保3(1083)年である。前九年の役の功労者清原氏は武則から3代目、真衡に代替わりしていたが、真衡が没すると義家は真衡の遺領を異母弟の家衡、清衡に配分した。配分に不満があった家衡は清衡の館を襲い妻子を皆殺しにしてしまう。応徳3(1086)年、義家は沼柵を包囲して家衡を攻めるが雪中の長期戦で凍死者が続出し、撤兵にいたる。寛治元(1087)年、義家は、再び金沢柵に移った家衡を攻め苦戦するが弟義光の来援を得て金沢柵を落とし、家衡らは追討された。世にいう後三年の役である。
八幡太郎義家は武将の鏡と称えられた。その子孫は義親、為義、義朝、頼朝と続き、河内源氏は義家から5代目にして鎌倉に武家政権を樹立した。しかし、武家政権は天皇親政への脅威であって、殿上人の位階を得た義家であったが、その裏では武家の成長を好まない朝廷の辛辣な対応もあった。応徳3(1086)年12月、義家は朝廷に清原家衡追討の報告をしたが私戦として扱われ、義光の出征は身勝手な行動とされ左兵衛尉を解任されている。さらに、寛治5(1091)年には、義光へ荘園寄進が後を絶たず寄進禁止の宣旨が下される有様だった。また、親子より主従の絆が優先される武家社会の営みを逆手にとった朝廷の工作も時代の潮流を止めることができなかった。いさ鎌倉の思想はすでに義家時分から徐々に形成されていたのだろう。通法寺址の東200メートルほどのところに小高い丘がある。丘上は平坦になっていて頼信、義家(写真上)の墓所が営まれている。頼家の墓所(写真右下)は通法寺址にある。 |
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通法寺跡 |
源頼義墓 |
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