遍路
遍路する人々
 札所で若いお遍路さんをみかける。たいがい菅笠、白衣にリュックサックに下敷き用マットを括り、ジーパンにスニーカー姿が若者に共通した歩き遍路姿。夏期の歩き遍路に壮年者や高齢者を余り見かけないのは、気候のよい春秋に集中するせいかもしれない。
  巡拝者は、札所に参拝すると、お経を唱え、参拝者名、参拝日などを記入した「札」を納める。四国巡拝の回数により札色が白から銀、金へとかわる。巡拝が50回をこえると金色の札を納める。札所を一巡すると約1500キロ。50回ともなると約7万5000キロ。日本列島を20往復するほどの距離になる。医療や交通手段が整っていなかった中世、近世における遍路の旅は、死と隣り合せの旅だった。多くは貧しく、病の苦しみが同居して救いを求めるあわれな者が多かった。途中、生き倒れ命を落とす遍路も多くいた。大窪寺辺りの路傍に残る遍路墓がその無念を語りかける。備前、豊後、筑前・・・、遍路が生きた証が墓石に刻まれ、墓前に手折った花が供えてある。今なお遍路墓は、地元の人々や遍路によって丁重に供養されているのである。
  巡拝に旅立つ遍路は、檀那寺から発行される「捨往来手形」を携えていた。それは江戸時代にすでに確立していた小豆島のミニ巡拝(島四国)においても同様であった。
捨往来手形  小豆島民俗資料館に遍路が携えた捨往来手形(写真左)が展示されている。手形に、「・・・万一致病死候ハゝ其御所之御作法之通御取埋可被下候国元江御付届ニ及不申候為・・・」とある。万一病死すれば、その土地の作法によって埋葬してください、連絡は不要、との趣旨である。宿願等により国元を出た遍路の旅は、檀那寺から発行された寺請証文(捨往来手形)を懐にお大師さんと二人連れ、孤独な旅であったろう。資料館を見学されるとよい。
  四国88箇所巡礼の風は元禄時代の頃に定着したといわれる。四国には、弘法大師ゆかりの真言宗の古刹が随分多い。その盛行は、「四国遍路道指南」を著し、札所に番号を付け、遍路道に道標を建てた江戸時代初期の僧、真念の功績によるところがはなはだ大である。「遍路の父」と呼ばれる真念法師の墓所は、牟礼の洲崎寺にある。
  周防の人・中務茂兵衛翁は、江戸から明治期にかけ歩き遍路一筋に生き、生涯を閉じた人だった。22歳ころから76歳で没するまで50年余、故郷に戻ることもなく遍路を続け、280回に及ぶ四国巡拝を果たした遍路の大先達である。翁は実に地球から月までの距離・38万キロ余をはるかに越える距離を歩き、遍路した人だった。300万年の人類史上、もっとも長い距離を歩いた人ではないだろうか。茂兵衛翁は真念と同様に遍路の先々で240基ほどの道標を建て、四国巡拝の隆盛につとめている。志度寺から長尾寺に向う遍路路や長尾寺の奥の院玉泉寺の境内などに茂兵衛翁が建てた道標が立っている。茂兵衛翁はいま、故郷の周防大島の茂兵衛堂(写真右下)に祀られている。毎月21日の縁日に訪れる人も多いという。
 山越え谷越え果てのない歩き遍路の旅を温かくつつむ四国の人々。室戸路や阿讃の峠、或いは野中、山中の遍路路に茶堂(休憩所)を建て或いは野面で地元の婦人会などによって湯茶の接待が行なわれる風景はいまも続く春の歩き遍茂平堂路シーズンの讃岐路の風物詩である。
  さぬき市長尾町塚原に「一心庵」がある。一心庵は県道志度山川線の東側の遍路道沿いにあるが、庵のある塚原は平野部における遍路道の原形をよくとどめている。大師堂、道標、高地蔵、遍路墓(芸州中原村忠左衛門)などが現存する。江戸期にはるばる小豆島肥土山の接待講がやってきて一心庵で常接待が行なわれていた。「常施待 小豆島」と刻まれた石碑や「小豆島肥土山邑 万人講・・・」と刻まれた手水鉢などがそのよすがを遍路道に映す。
  遍路道脇の休憩所でお遍路さんをみかけた。声をかけしばらくお遍路さんと雑談。お遍路さんは九州の人で60才、歩き遍路して1年半になるらしかった。「托鉢しながら3巡しました。故あって1000日間の巡拝を続けております。滝があればうたれますが、年をとっておりますので冬場の滝修行は体力が消耗します。歩くことは楽しいです。足摺や室戸の道は寂しく、人家が恋しくなります。寺のお堂でやっかいになったり、夏場は野宿もします。死人の守をしながら一夜を過ごしたこともあります。」と、眼鏡の奧で優しそうな目が輝いている。神社所属の修験者のようであった。

善根宿のこと
 昔、善根宿という遍路を無料で泊める宿があった。香川県下では、大窪寺近くの竹屋敷辺りにあった善根宿を最後に廃れてしまった。そうした臨時の宿では遍路に2食を接待し、朝には弁当を持たせた。
 しばしば飢饉に見舞われ、みなが飢え、働く気力すらわかないひどい飢餓の村で、1合の米を粥にたいて遍路に振舞ったという話が南予辺りにのこっている。俳人・山頭火も四国遍路の行乞から善根宿の様子を伝えている。仁淀川の沿岸に川口というところがある。昭和14年11月、山頭火が泊まった宿は小屋のような家で、板張りのムシロ敷き、夫婦と子供6人、茶碗も布団も足りないような貧しい家庭であったが、みんなで一つの大きな鍋を囲んで温かい汁を腹いっぱいいただき、肉親のよ
山頭火
山頭火銅像(JR新山口駅前)
うな愛情を感じたと書き残している。翌日、主人はもう一晩泊まってくれんかと言い、山頭火は主人の言葉に甘えた。葱のぬたの夕食と煮豆、煮しめの朝食の接待を受け、‘どなたさまもごきげんよう’と合掌し、出立する山頭火。名もなく、貧しく、明日の糧にもこと欠く者が、山頭火を一晩泊め、乞うて‘もう一晩泊まってくれんか’という。私たちのこころはいま、この主人の言動を理解できないほど荒んでしまってはいないか。
 かつて、戸口に立ち御詠歌を称え、僅かな銭か一握りの米の接待を受け、善根宿に泊まり遍路した人も多くいた。「お通りなして」と接待を断る家庭もあったが、四国の人々は、そうして遍路の風を陰で支えてきたのである。しかし、人の生活が豊かになり、高度成長期に入った昭和40年代ころから善根宿は姿を消した。

  ‘・・・私達はみな人生の遍路である。銘銘に自ら負はねばならない物を負うて、自分の名前を書いた札を撒散らしながら、自分自分の路を遍路して居るのである。しかも私達の周囲には、このお遍路さんに見るやうな信頼と扶助とが行なわれて居るだろうか。私は思う。私達はこのお遍路さんに学ばねばならない。遍路といふ行事を残した弘法大師の暗示を感じなければならない。而して人間の悉くが、お遍路さんの心を心とするまでに至らなくとも、私達はまづお遍路さんの信と愛とを以って人生を歩きたいものである。’<「山水巡礼」 萩原井泉水>  遍路の歴史は古い。それぞれの時代に、生涯をかけ遍路に暮れた人も多くいた。世界に類例のない四国巡拝の風は、今日に至っても一向に廃れることはなく、交通機関の発達などによってむしろますます盛んになっている。人それぞれの宿願が四国巡拝に駆りたてるのだろう。−平成15年8月−

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