熊本市内の電鉄藤崎宮駅近くに、報恩禅寺(写真左)という曹洞宗の寺院がある。山門をくぐると、唐破風と千鳥破風の向拝が付いた立派な本堂がある。参道の右手に標記の「けふも托鉢・・・」の句碑が立っている。
大正14年、山頭火はこの寺で出家得度した。導師は第16世望月義庵。句碑は後年、友人の大山澄太氏が建てた。
山頭火は、報恩禅寺で修業の後、植木町味取の観音堂に入り、その翌年に行乞行脚に旅立つ。山頭火の句にときとして禅問答に似た雰囲気が漂うことがあるのは、禅僧種田耕畝が同居するゆえからであろう。山頭火が禅門をくぐることになったのは、大正13年、酒癖が嵩じ熊本市内で電車の前に仁王立ちしてしまった事件が発端だった。
電車は急停車し事なきをえたのであるが、市民のひとりが山頭火の腕をつかんで報恩禅寺へ連れてきたのである。義庵和尚に師事した山頭火は咲野夫人と子が待つ市内の自宅へは帰らず、翌大正14年2月、出家してしまう。
妻や子を捨てるまったく身勝手な山頭火の行動は終生の負い目となり、山頭火の作風を支配することにもなったことであろう。
後に、山頭火が実践した行乞が歩行禅であったことは疑いの余地もないが、山頭火は托鉢で般若心経や修証義の一部ではなく全部を詠じたり、街角で出合った孤児の肩をそっと抱いてやることもあった。貧しい僧と孤児。僧は子を思い、孤児は親を思う。なんとも悲しい情景から山頭火は句を授かる。
山頭火の情感は、山頭火の深層に潜むことになった過去がそうさせているように思われてならない。そこに、芭蕉にも宗祇にもない文芸を踏み越えてゆく山頭火がいる。 |
寄り添うて黙って旅のみなし児は
旅の子はひとりでメンコ打つてゐる <山頭火> |
出家した山頭火は、義庵和尚の計らいによって植木の味取観音堂の堂守となるのであるが、1年足らずで行乞行脚に旅立つ。大正15年、桜の花が咲く頃のことだった。
昭和5年12月、山頭火は再び熊本に舞い戻ると義庵和尚に定住を勧められ、旧知の世話により市内の一隅に住まいするようになり、「三八九」(ガリ版雑誌)を発行する。しかし、山頭火は、漂泊の思い絶ちがたく、翌6年12月、熊本を後にするのだった。 |
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