多麻の浦(万葉集)−倉敷市玉島− | |||||||||||||||||||||||||
遣新羅使詠歌 ぬばたまの夜は明けぬらし <万葉集巻15 3598 > |
|||||||||||||||||||||||||
天平8(736)年6月頃、遣新羅使船は、阿倍継麻呂を大使にして難波津から須磨、明石、家島、牛窓、鷲羽山と瀬戸内海の海道を西行し、筑紫、壱岐、対馬を経て新羅に向かった。遣新羅使船は手漕ぎの木造船。明石の大門(明石海峡)にさしかかるころ大和は遠のき、早い潮の流れにただただおびえる遣新羅使たち。ときに漂流し、壱岐で雪連宅麿が死亡するなど艱難困苦の末、朝鮮半島に至る船旅は今日、私たちが想像する以上に過酷なものであり、万葉集に採録された歌は不安と望郷の念に充ちたものばかりである。多麻の浦の詠歌は、牛窓、鷲羽山あたりで詠んだ歌の次におかれており、当時の船道から推定して大方、高梁川河口部の玉島あたりの情景を詠んだものであろうと思われる。 鷲羽山から瀬戸内海を眺めると、眼下に備讃瀬戸が多島美をほしいままにして瀬戸大橋が櫃石島、与島を縫い坂出にのびている。このあたりの海峡は瀬戸内海で最も狭く、塩飽諸島のちぎれ小島が海峡を埋めている。備前の南岸を、児島から水島へと往く遣唐使船や遣新羅使船の船人は、この辺りまで航行すると美しい海景ゆえに、日本を離れ往く不安も一層極まったことであろう。
鶴は、今日でも山口県熊毛町に飛来しており、玉島の海浜部にも多分ナベツルやマナツルが飛来していたのだろう。白々と明ける海浜にツルが餌を漁り、塩飽の島々がうっすらとかすんで見える海景は墨絵を見るようであったろう。 玉島は、江戸時代に北前船で栄えた港町である。千石船(弁財船)が行交った港町だった。玉島の旧市街に往時の繁栄振りをしるす廻船問屋など商家の町並みが残る町である(写真下)。−平成18年12月− |
|||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||