・・・又、南一海を渡ること千余里。名づけて瀚海という。一大国に至る。官を卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里ばかり。竹木叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地ありて、田を耕せども、なお食するに足らず。また南北に市糴す。・・・<魏志倭人伝>
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壱岐・原の辻展示館 |
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深江田原 |
倭人伝は、壱岐国に一大国の好字を当てている。倭の諸国に悪字を当てる中華思想から考えると例外中の例外といってよい。一支国の誤りとみるより帯方郡の吏員が目にする倭の諸国中、最も開けた国が壱岐(一大国)だったと思ってみるのもよいだろう。壱岐にはそれほどみごとな田原と日本文化の黎明期の遺産がのこる島である。幡鉾川流域の深江田原(写真上)などみていると、つくづくそのような感慨が湧くのである。壱岐は、今日においても県下で一、二を争う米どころ。深江田原には原の辻(はるのつじ)遺跡が所在する。一大国を支配した者の官名は、対馬国、奴国、不弥国に似た呼称である。副官の卑奴母離は完全に一致する。これら諸国は部族的或いは政治的な結びつきがあったのだろう。
壱岐は瀚海にあって鉄ていなど鉄の地金を得やすい地理的な優位性があった。いち早く農具に鉄を履かせ水田の生産性を飛躍的に向上させた。また、鉄ていやその加工品を媒介し、北九州沿岸諸国等から食料を移入し、増え続ける人口を吸収したのであろう。壱岐国は、伊都国よりはるかに多くの人口を擁し、稲作も先進性に富むものだった。
近年、原の辻遺跡の発掘調査が進み、一大国の王都に相応しい遺物、遺構が発見されその姿が明らかになりつつある。三重の環濠がめぐる住居址は、約24万平方メートルもある。構造船が出入りしたであろう弥生時代の船着場(写真上は壱岐・原の辻展示館のジオラマ)や百十個所余りの高床式建物等の柱穴が発見され、青銅の舶載鏡や剣、鉄製の斧、鋤先、鎌等やトンボ玉、卜占に用いられたシカ、イノシシの卜骨などおびただしい遺物が出土した。今後、原の辻遺跡の幡鉾川流域から更なる大きな発見が期待できるのではないだろうか。出土遺物は、壱岐・原の辻展示館で公開されている。 |
石田野に宿りする君家人のいづらとわれを問わばいかに言わむ
<万葉集巻15 3689> |
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月読神社(壱岐島) |
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月読神社(京都・松尾神社) |
卜骨の発見は、魏志倭人伝がしるす倭の卜占の実証資料となった。後に卜骨は亀卜に遷移し、壱岐の卜部は朝廷や斎宮に出仕するようになり、陰陽道の一大勢力を成した。遣新羅使の一人、雪連宅満は卜占をもって朝廷に仕えた壱岐ゆかりの者とする説がある。西暦736年、新羅に向かう途中、宅満は奇しくも壱岐で落命し、石田峰(石田町)に手厚く葬られた(写真下)。万葉集に宅満の死を悼む歌が収録されている。
壱岐はまた、全国の月読神社の元宮(写真左上・下 2枚)が鎮座するところ。日に並ぶ月を崇めるアミニズムに通ずる信仰。神社は延喜式の明神大に列せられた格式をもち、国分東触(芦辺町)に鎮座する。式内社は壱岐島24座、対馬島29座、うち明神大がそれぞれ7座、6座を数え、北部九州から朝鮮半島間の狭い海峡に浮ぶ壱岐、対馬の二島に格式の高い神社が密集しているのである。壱岐対馬の諸神がしばしば日本神話に登場するように日本の黎明期に二島が果たした役割の重みを思わずにはおられない。
記紀神話は、イザナギ、イザナミノミコトからまずアマテラスオウノカミが生まれ次にツキヨミノミコトが生まれたと説く。西暦487年、壱岐の県主の先祖忍見宿袮によって月読神社の分霊が京都に遷し、神道が日本に根付く元となった。壱岐が神道の発祥地とされる所以である。分霊は京都の松尾神社、伊勢神宮の内宮、外宮に分祀されている。−平成18年1月− |
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