福岡市の西公園の展望所から博多湾を見下ろすと、湾の東側一帯は弥生時代に栄えた奴の国。大宰府が置かれた時代には、那の大津といわれたところだ。平和台付近に筑紫館(鴻臚館)があって外国使節の饗応や官吏の接待が行われた。
西暦736年(天平8年)、土師稲足らの遣新羅使一行も筑紫館で七夕を迎え、荒津の崎を通り新羅に向けて船をすべらせたのである。
西公園の先端部が荒津の崎。眼下の博多湾に志賀島、能古島、玄界島の大観がひろがる。那の大津を離れると、荒津の崎に絶え間なく打ち寄せる波のように不安が嵩じ、いっそう妻が恋しくなる。稲足の心の移ろいは、そのまま遣新羅使一行の行く手の不安を暗示する。今日は荒津の崎の凪いだ浜辺に波のざわめきをみるのみである(写真)。
西公園は風致公園になっていて、クロマツ、コウヤマキ、クスの大樹が茂る公園。クロマツが荒津の崎の面影を今に伝える。これほどまとまって松の大樹が岬の高所に残るところも九州でも多くはない。
西公園はまた博多のサクラの名所。サクラの大樹がその歴史を感じさせる。−平成18年3月− |