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竹敷 |
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金田城跡 |
対馬の浅茅湾の一角にある竹敷(写真左)は、古代から船舶交通史上の腰部であったばかりでなく、国土の防衛上の要害であり続けてきた。古くは、遣新羅使が停泊する浦であったし近代においては海軍の軍港として重視されたところだった。7世紀の中葉、白村江の戦で唐・新羅の連合軍に敗退したヤマト王権がいち早く国土の守りとして築いた金田城は、竹敷からほど近い黒瀬湾に臨む城山(標高276b)に城址(写真上)を遺している。
対馬は南北に長く約100キロメートルもある。東岸を北上し大陸に向かう航路は古代からの難所。島の中央部から船を陸に揚げ、その西に展開する溺れ谷に曳き入れ、波静かな竹敷で風待ちをして大陸を目指した。藩政期には宗氏によって大船越に運河がひらかれた。明治期には海軍が万関に運河をひらいている。島の東西方向の海洋間交通が容易になった。−平成18年3月− |