736年(天平8年)、筑紫の鴻臚館に滞在した遣新羅使の一行は、志賀島や荒津崎のみえる小高い丘の上でしばし休息するのだった。
鴻臚館は、平安京、難波のそれとともに、我が国の外交施設。外国使節の応接が行なわれ、遣唐使や官人などが宿泊する施設であった。筑紫の鴻臚館は平安時代以前には筑紫館(つくしのもろつみ)とよばれていた。現在の博多区中呉服町辺りに比定されていたのであるが、遣新羅使が詠った歌や鴻臚館の付属施設であった警固所などから鴻臚館の場所を平和台球場辺りに特定したのは、大正期から昭和期にかけ活躍した中山平次郎医学博士だった。
鴻臚館の発掘調査は今も続けられており、筑紫館から鴻臚館に続く約400年間の歴史の跡が明らかになりつつある。難波、平安京の鴻臚館遺構が確認できていない今日、筑紫の鴻臚館遺構は貴重である。平安時代以降になると鴻臚館の外交施設としての機能が薄れ、鴻臚館は商人が出入りする商館的色彩が強くなってゆく。
発掘調査が終わった鴻臚館の遺構に覆屋がかけられ展示館になっている。内部は発掘当初そのままの姿で遺物が展示され、建物の一部が復元されている。−平成18年3月− |