京都
由良川の橋梁(橋の風景)-京丹波町、綾部・福知山・舞鶴等各市-

綾部大橋(綾部市並松-味方)
 橋は別れや出会いの場として私たちの脳裏に深く刻まれている。銘々のバリアや国境の象徴ともなる橋。小川に架かる丸木橋や石橋などを渡り暮らした故郷の記憶は、私たちの生活史を彩る宝石であろう。
 川は少し大きくなると丸木橋や木橋というわけにはいかない。洪水の脅威がいつも同居する。しかし、流されても流されても現役であり続ける木橋はもう、木津川の流れ橋(八幡市。写真右下と背景)くらいのものだろう。忘れがたい記憶は橋と共存する場合が多い。広島の猿猴橋御幸橋は一瞬のせん光に20万人の命が奪われた日本の悲しい歴史を世界に訴える橋。ノー・モア・ヒロシマ、ノー・モア・ナガサキ。大阪のライオン橋(難波橋)は「水都大坂」の八百八橋の華。現代の大阪の繁栄をうつして余りある。
 文献に記された日本最古の橋は猪甘津の橋。石造呉橋かと思われるが、今はそれらしきものの橋桁が大阪のコーリアタウン近くに存在し、顕彰されている。時代は下るが現存する日本最大の石造桁橋は天草下島(熊本県本渡市)の町山田川の中流に架かる祇園橋(橋長29㍍)。そこはかつて切支丹教会が立ち並び、天草四郎時貞が率いる農民と幕府軍が戦った「天草の乱」の激戦地となったところ。わが国の宗教戦争や農民一揆の悲しい過去が海浜の絶景の彼方に浮かんで消える錯覚を覚える。

 橋はまた文化の象徴でもある。古代から江戸時代末にかけ木げた橋はその主流をなし宇治橋山崎橋、瀬田橋などの名橋に日本の歴史が塗りこめられた。淀川の山崎橋は行基の発願。長さ324㍍。しばしば被災し、天正年間(1592年)に朝鮮遠征の往還のため秀吉によって復旧されたが廃損。琵琶湖南岸の瀬田橋の始は景行天皇のころと伝えられほとんど霞みがかった橋。瀬田橋は戦略的に重要度が高く、織田信長の天正架橋によって整備された。長さ324㍍と山崎橋同様に長大な橋。現在の瀬田橋との違いが余りにも大きく、往古の橋はもっと南方に架けられていたとする説がある。
 日本に木造アーチ橋の名橋が存在する。日本三奇橋(錦帯橋・山梨の猿橋・木曽の桟橋)のひとつ錦帯橋がそれである。猿橋は錦帯橋と異なりカンチレバー式の木造橋。両岸絶壁の橋杭の打てない桂川に架かる橋。両岸から部材を斜めにさし出し、中間空隙に別の部材を載せ土砂を盛って通路とした橋。荷重によって斜めに打ち込んだ部材の跳ね上がりを防ぐため桁尻に乗せ石が置かれている。13世紀には存在した橋梁史上、稀有な橋。ドイツの橋梁学者メールテンをして激賞せしめた橋が山梨にある。
 石造アーチ橋では長崎の
めがね橋、鹿児島の眼鏡橋(甲突川)、熊本の眼鏡橋(坪井川)なども歴史を映して美しい。
    鋼製アーチ橋
 もはや戦後ではないといわれた第一次高度経済成長期のはしりに対馬で万関橋(まんぜきばし)(鉄製ヒンジアーチ橋)が開通した。30年代半ばには平清盛が拓いた音戸の瀬戸に音戸大橋鋼製アーチ(ランガ—)橋)が架橋された。
 昭和40年代の半ばころ第二次高度経済成長期に入ると、平家滅亡の哀史を伝える壇ノ浦の一角に、関門橋トラス補鋼吊り橋)が開通。昭和52(1977)年には文明の十字路とされた平戸島に関門橋と同型の平戸大橋平戸大橋平戸)が開通。それらのアーチ橋の架橋技術はその後の日本の長大橋の発展に大きな影響を与えた。
 時代は下るが鋼製アーチ橋をみると、長崎の西海橋が日本の高い橋梁設計・施工技術を世界に示した画期的な固定アーチ橋として知られている。橋長316㍍、支間216㍍、幅員7.5㍍。早い潮流と深い海面を考慮して架設法は片持式。1955(昭和30)年完成。固定アーチ橋としては世界有数の巨橋。山梨の猿橋ととともに、日本のこの種(片持式)の橋梁技術は世界に誇るべきものだ。2006(平成18)年3月に西海橋の北側に新西海橋(有料道路)が完成している。全長620㍍(主橋部300㍍)、幅員14㍍。形状が宮崎の内大臣橋(鋼製ヒンジアーチ橋・橋長199.5㍍。支間151㍍。アーチは日本最大)と似ている。
 日本の木橋の多くは、昭和30年代半ばの高度成長期のはしりのころからコンクリート橋や鉄橋へと徐々に架け替えが行われた。かつ、その構造も単純な桁(けた)橋から近年では鋼製の連続桁橋が主流をなすようになった。人の情緒や自然、環境との融合等にも配意して、アーチ橋、吊橋など様々の形状の橋が工夫され、架けられるようになった。これもまた、我が国が橋文化についても先進国の仲間入りを果たした証であろう。
 橋はまた、時代時代の地域発展の象徴でもあった。河川管理者や道路管理者、橋梁製造メーカーは常に世界の橋の流行を意識し、地域の発展に協調し、その適応に切磋琢磨してきたのだろう。
 
綾部大橋(冒頭の写真。京都府綾部市)や大堰橋(写真左。昭和10年建造。京都府南丹市八木。八木大橋とも)もそのような所産のひとつだ。
 前者の綾部大橋はポニー形式のワーレントラス橋。特記すべきはワーレントラスに鋼桁を組合せ、中央の鋼桁部に可動堰(バスキュール式)を設けた長浜大橋(通称赤橋)。日本最古の道路開閉橋。肱川の河口部に架かり、宇和海東岸の産業はもとより肱川廻船を支えた橋。設計は四国所縁の増田淳(香川県出身)。
 後者の大堰橋はゲルバートラス橋。桁橋であっても単純なトラス橋ではない。当時としては大層、モダーンな橋であった。絵葉書にもなり地域振興にも一役買った。ゲルバートラス橋といえば支間548メートルのケベック橋(カナダ。支間世界一)を思い浮かべる。この橋は工法が特異で二度にわたって多くの犠牲者を出し、難渋の上完成した。後の巨大橋の築造に大きな影響を与えた。架橋の工法が難しい橋であるがゆえに日本の橋梁関係者の魂に火をつけたことであろう。この橋は淀川水系の宝石の一つ。
 瀬戸内海に本州・四国間の幾筋もの橋が架かり、島嶼間の交通も船便から橋交通へと変貌した。橋は日本経済の勢いを示す指標だった。瀬戸大橋(中央支間1100㍍)明石海峡大橋(中央支間1991㍍)、アクアブリッジ(中央支間1991㍍)はいずれもつり橋。明石海峡大橋やアクアブリッジの計画段階での最大支間は明石海峡大橋1514㍍、アクアブリッジ約1500㍍(1969(昭和44)年当時、)だったと記憶している。ところが完成時の主塔間の最大支間は奇しくも両者とも1991㍍と相譲っていない。明石海峡大橋が譲った感なしとしないが設計施工段階での事情がよくわからない。いずれにせよ当時、つり橋の長大支間を誇っていたアメリカのベラザノ・ナローズ橋(1298㍍)やゴールデン・ゲート橋、(1281㍍)を超え、我が国の長大橋の架橋技術は世界一と評されるようになって久しい。

 北近畿に由良川という、延長146キロメートルの川がある。丹波高原から流れ出るこの川は、深い山間を縫うように流れ河口の由良・神崎で日本海にとけ入る。上流域に「大野ダム」(治水、利水)があり、中流域に「立木ダム」(由良川ダムとも。発電)がある。流域の河川段丘はよくひらけ、先の大戦前には、河川流域は養蚕王国をなす純農村地帯だった。
 明治末のころまで、由良川河口部の由良・神崎から有路、福知山を経て貨物を積みかえ高津、大島湊(綾部市)まで高瀬舟で運ばれた。住民の対岸への渡渉は渡し舟。道路交通の発達や鉄道の敷設により明治末期ころには舟運は絶え、木橋が架かるようになったが、洪水との闘いは止むことなく毎年のように架け替えが行われることもあった。
 綾部大橋(曲弦ワーレントランス7連のアーチ橋。写真上)など一部の橋を除き、由良川に恒久橋がかかりはじめたのは昭
決壊之地碑(由良川。福知山市)
和28年の台風13号の襲来以後。綾部大橋は累次の洪水にもよく耐え、今も供用に付されている。綾部大橋北岸(右岸)の紫水ガ丘公園に、同橋の親柱が顕彰されているのでご覧になるとよいだろう。
和束川の架橋
 台風13号による水害被害は京都府南東部の山村にも大きな被害をもたらした。その爪痕は山塊を抉り取り、お茶とコメの地域産業に壊滅的打撃を与えた。
 被災からおよそ10年かけ峡谷に新進の橋梁群が架けられ、生きる力らさえ失いかけた人々を抱き起こし、段丘上のお茶と稲作は再生された。

 激甚被害を受けたそこは木津川(淀川水系)支流・和束川の最上流部の湯船地区。薮田辺りから下流域にかけて滝のごと襲った洪水によって被災した橋梁は再生され、悪夢は駆逐された。
 和束川につかず離れずして通る京都府道5号線(創木津信楽線)が峡谷に一筋の道を刻む。その道は古くは恭仁京から紫香楽宮に通ずる往還で聖武天皇やあの家持が歩を刻み、藩政期には天領を差配した多羅尾代官(在信楽町)たちが歩いた官道だった。
 府道5号線が和束川峡谷を縦断する湯船の要所に八七瀬(やなせ) (鉄筋コンクリート製・ローゼ橋)が竣工したのは昭和35年。水害から7年後の春のころだった。コンクリートを鉄筋で補強した強靭・強固な新鋭橋は復興を待つ住民の歓喜の橋だった。
 京都府はそのローゼ橋を筆頭に峡谷の要所、要所にプレテン式桁橋を架け続けた。地蔵橋東条師(ひがしとうじょうし)
などいくつもの橋梁が配されまた、河川管理者は地蔵橋の袂に桜を植樹することも忘れなかった。湯船の爛漫の春を告げ、災害の戒めを今に伝える復興の記念樹。
 河川管理者はまた、峡谷の水際に「流れ橋」を配する配慮を怠ることはなかった。路面となる板をワイヤーロープで結わえた橋は洪水時には橋の中ほどから路面が流れ出る単純な構造。いまなお実働の橋だ。稲藁を満載し、起用に橋を通る軽トラの後姿が弾んで見える。木津の流れ橋のほか、淀川水系の流れ橋はもうこの橋を除いて廃絶したのではないだろうか。
 湯船のお茶の生産は高齢化等によって陰りを生じているが湯船は地勢がよく季節になると和束茶の面目躍如の香りを放つ。
 台風13号(昭和28年)によって綾部・福知山で堤防が決壊し、沿川都市は大打撃を受けた。福知山市内の由良川堤防上に記念碑((「決壊之地」)が建っている(写真上)。その洪水を契機に堤防は土砂積み護岸からコンクリート護岸へと再整備が行われ、あわせてコンクリート橋や鉄橋へと橋梁の恒久化が推進された。また、橋の構造も桁橋、アーチ橋、吊り橋など多様な橋が地形、地質などの特性に応じ自在に架けられた。それは日本の経済成長の後を追うように架けられ、峡谷に光が射し、渡川の不便は徐々に解消されていった。以来、70年を経過した。
 水害への対処は由良川の永遠の課題。中下流の高低差が少なく傾斜の緩い川は水害と隣り合わせ。由良川の水害は近年に至っても止むことはない。翻り由良川流域の産業集積度は江戸川や淀川など大都会の河川には到底及ばない。河川の立地条件が水害防御率の水準設定(流域河川整備計画)に重大な影響を及ぼすことは避けられないこととしても、一人の人命は金銭に代えがたく重い。また水害リスクが住地選定の要素として固定化すれば都市農村の格差は一層、拡大する可能性がある。非常に難しい課題と言えそうである。
 福知山に水天宮が鎮座する。山家の坂牧水天宮とともに水難除けの由良川二神である。福知山水天宮の造営経緯はよくわからないが、福知山から久留米藩へ転封になった有馬豊氏が再整備し、筑後川の河口部に鎮座する水天宮を後年、福知山衆が勧請したものか。久留米の水天宮は全国の水天宮の元社とされている。久留米藩の丹波衆を通じ福知山から久留米に水天宮が勧請されたとすると、福知山水天宮が元社となるのだが…。久留米藩主有馬豊氏との所縁を思わせる。
 福知山御霊神社境内に「堤防神社」が鎮座する。日本一社の稀有な神社であるらしい。これもまた由良川の治水が今なお神頼みであるのかもしれない。


 橋の老朽化や交通事情の変化等により順次、架け替えが行われている。近時、大川橋(綾部大橋と同型の曲弦ワーレントランス型のアーチ橋)の連続桁橋への架け替えが行われ話題になった。上原橋(昭和29年築造)や八雲橋(昭和30年築造)の両吊り橋は今なお健在。河口近くの八雲橋は水面に橋容を映して美しい。上原かんばら橋は陰々とした峡谷の華だ。橋長99㍍、幅員24㍍の生活橋(自動車禁)。八雲橋よりだいぶ小振りの橋。八雲橋より2年早く築造された。左右の主塔はコンクリート。左岸の主策はケーソン基礎に定着され、右岸側は断崖の岩盤に定着されている。フランスのタンカービル橋(橋長1.4㌖)と奇しくも左右の主策の定着方が同じで興味をひく。この橋は由良川と支流上林川の合流部に架かる肥後橋(国道27号線)に極めて近い。同橋は今、改修中。上原橋の扱いが注目される。由良川ダムに架かる弁天橋は通行不能。

 由良川は綾部市東部(東山町)から南丹市の芦生(あしゅう)(美山町。源流部)に至る約100㌖ほどの区間は峡谷を成す。うち下山辺りから川は国道27号線とつかず離れず流下する。峡谷は陰々とした冷気を溜め、水は岩に砕け或いは蒼く澱んでいる。
 上原橋の下流に山家橋(補剛ランガ—桁橋)や和木大橋、上流に弁天橋(吊り橋(通行止))や舟戸橋(桁橋)が架かっている。舟戸橋辺りはしばしば風水害被害を受け丸木橋から吊り橋等に架け替えが行われたが谷は深く、恒久橋の築造が住民の悲願であった。舟戸橋は昭和55年に完成し橋の袂(左岸。府道脇)に苦難の時代を刻んだ記念碑(「舟戸橋史」。碑文参照)や道向かいに岩を刳り抜いた祠に板碑地蔵が数体安置されている。山家橋の袂には坂牧水天宮が鎮座する。深い渓谷に水害への祈りの風景が見え隠れする。
 舟戸橋記念碑のすぐ先に由良川支流・大簾(おおみす)川が合流し、立木橋が架かる。橋から大簾川の上流を眺めると深い渓流をJR山陰線が横断しトラス橋が、その少し上流の府道バイパスに広野大橋が架かっている。大橋に立って天空を仰ぐと、西方に長大な高速道路橋(京都縦貫道)が峡谷を一跨ぎして西側に延びる。ああこの峡谷は橋銀座。由良川本川、支流の橋は数えればきりがないほど多い。

 深い峡谷に一重、二重に重層を成す田畑、森林と民家。丹波の人たちは特有の段丘景観や四季折々に広葉樹と針葉樹が織りなすグラディ―ションをこよなく愛し、季節の移ろいを知る。道路や河川・渓流の強靭化と自然との調和に、森林・道路・河川管理者はもとより橋梁メーカーの気苦労は尋常ではないだろう。
 広野大橋は両岸、断崖をなす大簾川峡谷に架かる橋。逆アーチ(トラス)橋のように見えるが支間107.5㍍の世界最長の曲弦式PC橋であるらしい。重量車が通ってもそれが橋であることをまったく思わせない安定感がある。この橋などは風致を尊ぶ日本人が生み出した‘名橋’といえるだろう。 

 時代の推移とともに、橋の形状等もまた橋梁工学の進歩や経費、交通量等状況に応じ漸次、変化し選択幅が一層拡大した。由良川においても吊橋やアーチ橋から鋼製桁橋へと架け替えられる例が多いといえよう。
 大川橋のように架け替えにともなって橋の構造も変わる橋がある一方、綾部大橋のように老朽化に耐え続け、今日では文化的価値の高い橋が存在する。綾部大橋や旧岡田橋等もそのような橋。旧岡田橋(明治21年築造)は由良川支流岡田川に架かる石橋(旧岡田橋。メガネ橋)。
 綾部大橋は京都府下における昭和初期の代表的な鉄橋。蚕都・綾部の繁栄を偲ばせる民俗資料的価値をも含み貴重である。綾部大橋の下流に綾部井関という重要な灌漑施設が存在することや上流に新綾部大橋(斜張橋。写真下)か架設され、国道27号線と同9号線とのアクセスが容易になったことが、綾部大橋の保存、存続につながったのだろう。新綾部大橋は大野ダム湖に架かる斜長橋とともに由良川の妖精であろう。大変美しいものだ。
 丹波人は、綾部大橋辺りの河畔(並松)の桜や橋上から見物する花火(水無月祭)の印象が脳裏に深く刻まれ、並松の水辺景観と相俟って綾部大橋にたまらない郷愁を感じるという。
 由良川下流における岡田下橋(トラス橋。写真下段)は、丹後人の脳裏に刻まれた追憶の橋であるに違いない。この辺りは永く渡し舟に頼っていたところ。昭和28年の大水害を機会に恒久橋が架設された。トラス橋が次第に姿を消す今日、この橋は今も由良川の川面に橋容をたたえて美しい。
 また、自動車専用道の整備によって長大な道路橋が由良川にも出現した。舞鶴由良川大橋(ヒンジアーチ橋。写真左、同下段)がそれだ。丹後の天空に描くアーチが美しい。岡田下橋、八雲橋とともに由良川下流における架橋の三大絶唱であろう。
 由良川の上流域の和知の上升田橋(逆ランガー橋。写真下段)や
知第2大橋、由良川中流域の音無瀬橋(バスケットハンドル
音無瀬橋
下柳町 町屋通り
ニールセンローゼ桁橋 写真右)などのアーチ橋や、由良川下流域の八雲橋(吊橋。写真下段)なども印象に残る橋。音無瀬橋は商都・福知山によく似合う。八雲橋は由良川の最下流の橋。遠目にも美しく、紅白に塗装された愛らしい橋である。
 橋はまた都市計画や治水上の課題から頻繁に架け替えが行われ街が消え、生活の場を失った人がいたことを忘れてはならない。福知山の音無瀬橋の架け替え(平成7年3月完成)などによって消えた上柳町はそのような街の一つ。残った柳町の北半分(下柳町)の町屋通り(旧山陰道。写真上段)が往時の繁栄を映して懐かしい。

三河橋(福知山市大江町三河)

在田橋(福知山市大江町在田)
 由良川中下流域には三河(そうご)橋(写真左)や在田橋(写真左)などコンクリート桁橋も健在で実用に供されている。両橋は付近の渡船場が集約される過程で生まれた沈下橋。幅4メートルにも満たないささやかな橋。地域の生活道路として忘れられない橋である。器用に通り抜ける車の後ろ姿が弾んでいる。
 鉄道橋はJRの下由良川橋梁(綾部市)や河口部に架かる北近畿鉄道の由良川橋梁(舞鶴市)がよく知られている
 由良川は古来、治水の難しい川。福知山盆地から由良の戸に通づる河口部までの傾斜度がゆるく、しばしば洪水を引き起こし流域住民を苦しめた。円山古墳写真)の被葬者はそうした治水に功績を上げた首長であったに違いない。眼下の氾濫源の統治がいかに困難を極めたか一望して理解できるであろう。
 先の大戦後、大野ダムの建設や流域の開発に伴う適正流量の減少によって河川汚濁等が進み、シロサケやアユの遡上もめっきり減少したが、この気難しく、美しい河川景観や自然とのふれあいを求め春夏秋冬、川べりを探勝する人もまた多い。由良川は橋が多くその形状も多様。差し詰め由良川は橋の博物館といえるだろう。いずれも河川景観を壊さず美しい橋が丹波・丹後にある。-平成23年- 
大野ダム湖に架かる斜長橋
大野ダム湖に架かる斜長橋
上升田橋(ランガー橋。船井郡京丹波町升谷)
上升田橋(逆ランガー橋。船井郡京丹波町升谷)
新綾部大橋(斜張橋。綾部市並松-味方)
新綾部大橋(斜張橋。綾部市並松-味方)
岡田下橋(トラス橋。舞鶴市字志高)
岡田下橋(トラス橋。舞鶴市字志高)
由良川大橋(アーチ橋。舞鶴市字桑飼上)
由良川大橋(ヒンジアーチ橋。舞鶴市字桑飼上)

八雲橋(吊橋。舞鶴市字中山)
下由良川橋梁 由良川橋梁
下由良川橋梁
(JR舞鶴線)
綾部市川糸-味方
由良川橋梁
(北近畿鉄道)
舞鶴市神崎-宮津市由良

由良川の名勝
 由良川の名勝を河口部から遡ってみると由良の戸、安寿と厨子王の塩汲み浜伝承地、山椒大夫屋敷跡、桑飼下縄文遺跡、元伊勢皇太神社、福知山城跡、私市円山古墳、大本教綾部本部弥勒殿、山家城跡、和知人形浄瑠璃、大野ダム、美山の茅葺集落等々の上古から現代に至るまで連綿として築かれた数々の由良川文化の跡を辿ることができる。
 由良川は、また深い峡谷にV字谷を刻む。段丘上の険しい斜面で農林業が営まれてきた歴史は、四国・吉野川の流域村落と相似通ったところがある。
 和知から山家に至る渓谷上に、その典型的な村落が点在し、丹波の天空に映えて美しい。
 山家の由良川渓谷に立岩という名勝(写真左)がある。昔は文人墨客が杖を曳き、シーズンになると釣り客で賑わったところだ。皇室へ献上され、かの井伏鱒二が釣り糸をたれた山家のアユこそこの立岩のアユであったに違いない。
 しかし深い峡谷の斜面はいつの間には木竹が茂り、次第に人々の入川を拒むようになったようだ。国道27号線脇の空き地が、立岩の唯一の展望所だった。近年、立岩(由良川左岸)への散策路が拓かれ、JR山家駅から徒歩30分ほどで立岩見物が可能になった。
 4月某日、立山を訪れる。高さ30メートル周囲50メートルの立山は実に怏々しいものだ。立岩から由良川にせり出し、甌穴が刻まれたた巨岩(写真左・下)もまた美しい。立岩の東側一体はヤブツバキの純林が広がリ、満開。由良川流域では珍しい植生をなしている。立岩の西側の岩陰でひっそりと咲くミヤマカタバミが実に可愛らしい。大事にしたい由良川の名勝である。
 夏季には立岩下流で観光やな漁が行なわれる。丹波の仙境に遊ぶ日があっても良いだろう。-平成26年4月-