京都
大山崎油座の商人のこと−乙訓郡大山崎町大山崎−
宵毎に都に出づるあぶらうり更けてのみ見る山崎の月
                    〈職人尽歌合〉
 
 油祖神像
 
 守護不入傍示
 天王山と男山。桂川、宇治川、木津川の三川が流れる狭隘な狭間の両岸で、二つの山が向き合う。そこは京、大坂或いは奈良への要衝として幾多の歴史が刻まれたところである。
 天王山の麓に大山崎という京都府南部の街がある。古代の山崎郷である。京と山陽道を結ぶ西国街道沿いにひらけた町である。対岸の男山山上には石清水八幡宮が鎮座し、麓に橋本(京都府八幡市)の街がある。石清水参拝の入口に当たる。淀川を往来する船便でさかえたところだ。
 むかし大山崎と橋本間に、紀貫之の土佐日記にみえる橋が架かっていた。当時はここが舟運の終点。今とは川相がだいぶ異なり、巨椋池から流れ出る川は山背川或いは木津川とも呼ばれた。その川筋に、「山崎橋」或いは「河陽橋」と呼ばれた橋が架かっていた。行基年譜にしるされるとおり、この橋が行基が神亀3(726)年に架けた橋であろう。橋の維持が難しく16世紀ころには橋はなくなり、「山崎の渡し」或いは「橋本の渡し」に変わったようだ。
 永禄5(1562)年の制札により、橋本の渡しは石清水八幡宮の燈油の通路になり、無賃乗船や新関の建設を禁じている。制札から大山崎油座の商人が燈油を携えて山崎と石清水八幡宮を往来していたこと、渡しの通行料が徴集されていたことが知れる。併せて新関の建設を禁止しており、渡し用の関戸で通行人をチェックし、併せて通行料の徴収を行っていたことがわかる。
 大山崎と大阪の境に関戸祠がある。祠の祭神は大巳貴命。もともと水瀬川の北岸に祀られていたといわれる。今は大阪府三島郡島本町側にあり、関戸明神或いは関大明神社などと呼ばれている。関戸祠は西国街道の山崎関址と考えられるが、祠の位置の変化につき国境の変更よりも水害等による渡しの位置の変化を優先して考えると、橋本の渡しの関戸と考える余地もあろう。
 さて、燈油を抱えて石清水八幡宮との大山崎の間を往来した者こそ大山崎離宮八幡宮の神人(しんにん)と称して荏胡麻油(えごまあぶら)をあきなった油座商人である。離宮八幡宮は貞観元(859)年に奈良西大寺の僧行教が九州の宇佐から八幡神を勧請した際、男山鎮座に先立って、嵯峨天皇が営んだ河陽(山崎の別称)の離宮の故址に宮を営み、八幡神が寄泊されたところから離宮八幡宮と称するようになったという。ここに油座ができ石清水八幡宮や京都の公家、貴族に荏胡麻を納めていたが、平安時代末ころから種々の特権を得て、大山崎油座商人として全国にその名が知られるようになった。油座神人は荏胡麻の優先的な購入・販売権を有し、関津料は免除。今日の葉タバコのような専売品に近い商品だった。大山崎に集められた荏胡麻は長木という絞油器で搾油され、行商或いは京都などでは小売店や問屋を構えるなど、大山崎の油座は大いに栄え、中世には守護不入の利権さえ有したのである。離宮八幡宮に建つ油祖神像や守護不入の傍示石が往時の繁栄を偲ばせる。それもまた八幡信仰に支えられていたのだろう。
 応仁の乱後は山崎の地が戦乱に巻き込まれたり、山名宗全の天王山築城などにより騒然とするようになり、あきないの環境が失われ、また織田信長の楽市・楽座の制により油座の特権を失うと山崎の油業はさびれ、江戸時代には大阪の油業(菜種油)に吸収されていった。
 新緑の影がうつろい、河陽宮の石碑に陽が射し、油壺をうやうやしく手にした油座神人が佇む離宮八幡宮境内をメジロ、シジュウカラがせわしなく鳴きわたってゆく。−平成23年4月−