石橋の記憶(旧岡田橋)−舞鶴市岡田由里 |
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由良川は全長146キロメートルの川。
若狭湾(日本海)に注ぐ河口近くに岡田由里という人口160余人の集落がある。そこは由良川とその支流岡田川流域に立地し、合流点の少し上流に旧岡田橋(花崗岩のアーチ橋。地元ではメガネ橋と通称)が架かっている。メガネ橋はもともと由良川(左岸)に沿って由良湊(日本海)に向かう国道175号線上に在った。
しかし国道175線の移設及び岡田川の改修によって新岡田橋が旧岡田橋より少し下流に築造され、旧岡田橋は地元の願いによってそのまま岡田川に保存され、河川公園化された。訪れた日、岡田川は冬枯れ。水面に映るメガネ橋を見ることはできなかったが河原に降り、橋の仔細を覗き見ることができた。
現地の説明板によると旧岡田橋は、「花崗岩製の石橋。全長16.7b、幅5b、明治21年築造、設計は田辺朔朗と伝わる。」と記されている。
朔朗は文久元(1861)年、江戸生まれ。大学卒業とともに京都府知事北垣国道に請われ京都府御用係として採用された。弱冠21歳。琵琶湖疎水を設計し、明治23(1890)年に完成させた。
メガネ橋雑感
メソポタミアに生じた石造メガネ橋は爾来、6千年の歴史を山川に刻んだ。メガネ橋の日本での架橋は17世紀以降。中国僧が寛永11(1634)年に長崎に架けたメガネ橋が最初。以来、鹿児島、熊本などで盛んに築造された。甲突川(鹿児島)のメガネ橋、矢部(熊本・矢部町)の通潤橋、諫早メガネ橋(写真下。長崎・諫早市)等々が次々と築造された。しかし、メガネ橋は本州では流行らなかった。加工に適した溶結凝灰岩を産出しないためともいわれるがどうだか。要すれば石材の移送もできたはず。橋の築造技術が熊本の三五郎一族(熊本)など特定の技術者集団に独占され、施主或いは施工事業者が巨費を要する石材などの予算見積りができなかったことが主因とする説がある。鹿児島の武之橋(メガネ橋。71b。平成5年流失)ほど大きな橋になると費用は巨額。つかみ予算では到底、築造できるばずもなかった。専門技術者集団はπ(パイ=3.14)を使ってする円弧の計算やせり石の選定術などを秘術を伝えていたのだ。
諫早の眼鏡橋(現在、公園に展示)を見ていると石柱のもたれあいで壊れず、倒れず重圧に耐えた過去を夢想する。洪水によって周辺の構築物がことごとく流失してもこの橋だけは残り、かえって洪水被害を増幅させたとの批判を受け退役を余儀なくされという。何とも怪物を見るような怖れを感じないでもない。
和算家関孝和をもってしてもネガネ橋の円弧の計算が行われなかった。築造の秘伝は九州のメガネ橋鎖国によって本州への導入は200年ほど停滞し、ネガネ橋は幻であり続けたと言えまいか。
橋の用途は道路に限らず水道橋として築造された。ローマ人はその方の天才でモルタルや漆喰を使わず築造以来幾星霜耐え続ける2層、3層のローマ時代の水道橋がスペインやフランスにも現存している。フランスのカール水道橋は3層構造で長さ270b、高さ45bもある。紀元前19年にローマ人によってプロバンスの谷に築造された。日本には石橋らしき「猪甘津の橋」の親柱が大阪に顕彰されているが、それは渡来人から授かったものか。木の文化国たる日本では水の引導は木管が使われたというべきか。本州における石造の農業用水路橋の初出は明治15年、広島の「三永の石門」。築造に5年を要したという。 |
メガネ橋は(旧岡田橋)それより2年前に完成している。築造から135年を経て、国道として酷使にされ、幾度も洪水に遭いながら立ち続けたメガネ橋。要のセリ石はすり減ることも、破損することもなく凛としてある。不倒不壊の橋。由良川水系最古のアーチ橋(石橋)ではないだろうか。
それにしても木橋が普通であった時代になぜこの地域の河川にアーチ橋(石橋)が採用されたのか、よくわからない。若くしてテルフォード賞(イギリス)を受賞したように朔朗の能力が特段、秀でていたことはよくわかるが…。琵琶湖疎水や日本初の蹴上の発電所建設がそうであるように、北垣の懸念と熱望が朔朗の能力を得て滔々と流れ出たと思うのだが…。
北垣国道は天保7(1836)年但馬(養父市)で生を得た幕末の志士。はじめ尊王攘夷を唱え大和の天誅組とほぼ同時期におこった「生野の変」に参画したが敗北。長州藩に落延び、京都、江戸、長州などに潜伏し坂本龍馬、高杉晋作などと接触し後に鳥取藩士となって戊辰戦争(新政府軍総大将西郷隆盛)に参画。丹波の山国隊が鳥取藩に附属していたことから指揮官として戦った。山国隊は農兵によって組織されていて北垣自ら提唱した農兵論とも馴染み、戊辰戦争の最終局面となった上野戦争では彰義隊とも死闘を重ねた。上野戦争における彰義隊の死者は二百数十人。新政府軍は勝利した。彰義隊の戦死者の遺骸は上野で荼毘に付された。山国隊は敵兵への敬意を忘れることなく遺骸の処理に当たった。往古より天皇家に尽くした山国隊は勤王の誉を鼓笛に刻んで丹波・山国へ凱旋した。今なお、京都の「時代まつり」で山国隊の隊列に手を合わせる古老もいる。
北垣は今の養父市で生まれ。漢学者池田草庵 の私塾「青谿書院(養父市八鹿町宿南)」で学び羽ばたいた。塾は円山川に臨む、青山川渓谷の段丘上にあり、そこは自然豊かな田園地帯。北垣はこの学舎で草庵の薫陶を得て学問はもとより、その思想に大きな影響を受け生涯、不撓不屈の精神を失わず数々の偉業を成し遂げている。
草庵は言う。‘読書は精を貴び用功は実を貴ぶ’と。草庵は新宮山麓の大御堂・満福寺(「但馬高野」とも。青谿書院の南方約13`)で約10年間、学問の研鑽(一般人を受入れ僧侶とともに勉学)に没頭し、漢学を学問の基礎に据え、後に但馬聖人と称された人。北垣は琵琶湖疎水など壮大な事業に取り組むなど草庵の格言を実践し、田辺朔朗など能力のある人材の登用にも熱心だった。
東奔西走する苦難の中から北垣は道路や橋の重要性を感じ取ったに違いない。民生の安定を希求する情熱が後年、朔朗との邂逅を得て爆発し、郷里に近く通ったこともあった由良川(岡田川との合流点)に件のメガネ橋を架けさせたのであろう。
北垣は明治維新の生き証人の一人。維新後、高知、徳島の各県令を経て、京都府知事に勅任された。10年余の京都府知事在任中は琵琶湖疎水の開通、蹴上発電所や路面電車の開業等々、業績をあげるなど官僚、政治家として名を成した。私生活では、丹波出自の厳師で天龍寺の初代管長・滴水禅師の薫陶を受けた居士であった。娘は朔朗と結婚。京都で没。−令和5年12月28日− |
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