西郷さんの風景-鹿児島市-
雨は降る降るじんばはぬれる 越すに越されぬ田原坂・・・(肥後民謡)
 「晋どんもうここらでよか」、1万4千人余の戦死者を出し未曾有の惨事となった西南の役で九州山地を縦走し帰郷した西郷さんは、明治10年9月24日、別府晋介の介錯によって自刃。享年49歳。西南の役最大の激戦地、「田原坂の戦」(写真右下、熊本県植木町)から6ヵ月後の出来事だった。自ら開いた私学校にほど近い城山・岩崎谷での最期だった。
 江戸城開城、廃藩置県など江戸から明治へと日本の近代化の扉を開いた西郷さんが、旧習を引きずる士族の不満分子に組し、西南戦争で自らが率いることもあった新政府軍と戦闘を交えるという矛盾は、戦争の引き金となった政府軍の火薬庫襲撃事件の主犯が私学校生徒であったから同情したというような単純なものではあるまい。
 佐賀の乱、神風連の蜂起(熊本)、秋月の乱(福岡)など九州で下級士族たる官吏による新政府への反乱が続発していた。政権の変更に伴い失職した大量の官吏への授産等の処遇は新政府が負うべき課題であった
西郷翁終焉地
西郷終焉地
田原坂
田原坂
が、新政府の対応は遅々として進展をみなかった。失職者の処遇を考えない大量リストラの断行は、おおいに社会不安をあおったのである。それでも西郷さんは、動かず自重していた。
 火薬庫襲撃の報を受け、とっさに「しまった」と発したとされる西郷さんだった。その心中は、生徒への怒りや憎しみではなく暴走への自責の念からだろう。明治10年、大久保利通の命によって十数名が隠密裏に来鹿した。それらの者が私学校生徒に捕まり、西郷の暗殺計画を自白するという事件があった。新政府は、鹿児島の不穏な動向を覚り、兵器の移転を始める。この政府の行動が私学校生徒らをひどく刺激してしまったのである。
 折りしも政府高官の綱紀の乱れは甚だしく、維新後の社会制度の整備は遅々としていたから、いわば改革の起爆剤とすべく「政府へ尋問の筋あり」と反旗を掲げたはずの西郷さんだった。しかし、新政府には到底届かず、和議することもなく西南の役へとなだれ込むこととなった。有栖川熾仁親王を逆徒征討総督に立て、明確に西郷さんを朝敵としたのである。戦役は新政府軍の勝利に終わった。評者は、西郷さんをして「維新の功労者、明治の逆臣」という。

 西南の役の前夜、数々の功績をあげ江戸城開城を成し遂げ、鹿児島に帰郷していた西郷さんを再び中央政界に呼び戻したのはそもそも岩倉具視や木戸孝允、大久保利通だった。岩倉を勅使にたて鹿児島に向かった一行は、表向きは島津久光の引出しを装いながら西郷さんを上京させたのである。西郷さんは明治新政府の主席参議に就任。言ってみれば首相を託され、在任2年間(明治4〜6年)の間に、廃藩置県を断行し日本の近代政治史上の金字塔をうちたてた。西郷さんは、戊辰戦争をもってしても果たせなかった藩を潰した。その際、木戸を除き参議は全員が辞任。そうした中、西郷さんは大臣、諸卿らの心配をよそに「反抗するところがあれば、私が兵を率いて打ち潰す」と明言し、諸藩の反乱を抑止し改革を進め、信念が揺るぐことはなかった。西郷さんの進歩的な思想と果敢な行動によって江戸城開城や廃藩置県などの諸改革が次々と成し遂げられ。西南の役は、日本の近代化の扉を開いた西郷さんが皮肉にも身をもってその扉を一層強固なものにしたというべきであろう。
 明治維新は、西郷さんをはじめ板垣退助、江藤新平ら下級武士たちによって成し遂げられた。貴族、高僧、高級武士らによって担われた時代を打ちこわし、日本史に大変革がおこった。変革の実態からみれば革命であった。しかし、西郷さんは同志を刑場に送った者に対する報復には無頓着で、次々と新時代への駒を揃えた点において無私の英雄であったというべきであろう。
 しかし、明治6年、西郷さんはいわゆる「征韓論」により野に降った。大久保が実権を握るようになり、政府内で再び上級士族や官僚らが台頭しはじめる。改革が停滞したばかりか専制的強権政治へと楫が向くようになる。西郷さんが希った「敬天愛人」(人権平等)の思想の定着化は遠ざかるばかりか、官僚の横暴を緩し、西郷さんをして「政府へ尋問の筋あり」と言わせるようになる。西郷さんは征韓論の本質について何の説明もしていない。折りしも、政府内の実情は、こじれにこじれた対朝鮮外交の解決策を見出せずにいた。朝鮮は当時、清朝と宗属関係を結んでいて、維新政府が清朝と対等或いはそれを越える地位を獲得することは、倭の五王の時代から自国の優位性を主張してきた朝鮮のナショナリズムを大いに刺激した。副島種臣外務卿の清朝入りなどが朝鮮を大いに刺激することとなったのだろう。西郷さんは事態打開のため単身、朝鮮へ乗り込むことを希求し、2度まで閣議決定を行ったが大久保や岩倉らの計略で破棄され、西郷は参議を辞して下野。大久保らの閣議決定無視の暴挙に失望の体を示したのである。西郷さんの対朝鮮政策の真意について、朝鮮に戦争を仕掛け、旧士族の働き場所を朝鮮で得ようとした説や、平和裏に同盟を結ぼうとした説など諸説ある。海舟は後年、西郷の考えが朝鮮との平和同盟の締結であったことを示唆する発言をしており、それは必ずしも加藤清正の虎退治風の短絡的な着想ではなく、当時の世論に迎合するものでもなかったのかも知れない。しかし西郷は自らを殺害しようとした同郷の大久保を非難することも、征韓論につき釈明することもなく野に下った。
 私達は、西郷さんに朝敵の汚名を着せ、勝てば官軍という諦観を日本人の心に植えつけてしまった点につき、はなはだ不名誉な過去を背負うことになった。西郷さん終焉の地に石碑が顕彰されている(写真右上)。背後のクスの大木は日傘、ソテツは供花、時おり訪れる観光客は熱烈な西郷ファンであろう。

 私学校の跡地の前をバスやトラックが駆け抜ける。私学校跡地は国立循環器病センターとなっている。石垣に残るおびただしい弾痕が官軍との激戦を物語る。
 西郷さんは、王政復古、江戸城開城、廃藩置県など日本の近代化に輝かしい業績を残した人であるが、嘘や偽りを嫌い、富や権力、官位などへの執着が薄く、敵方に退路を与えることはあっても自らの退路を求めず、その言動はいつも人民の安寧と国家の行く末に向けられ、最後まで「敬天愛人」の精神を貫いた人だった。「天を相手にする」といわれた気宇壮大な西郷さんであるが、俸給の大部分は貧しい者に与え蓄財に励むこともなく、月照との入水自殺の経過についても、西郷さんが人の信頼を裏切らない誠実な人であったことをうかがわせる。
上野公園の西郷隆盛像 江戸城の無血開城の一件において、西郷さんは、自らが率いる官軍の圧倒的な優勢にもかかわらず奢らず高ぶらず、旧幕府陸軍総裁勝海舟の胆力を試すようなこともせず幕軍に退路を与え、江戸市中を火の海にすることもなく新時代への転換を成し遂げたのである。ことの仔細を一番よく理解していたのは江戸市民であったろう。上野公園の西郷像(写真右)がすべてを語っている。政敵に注がれた西郷さんの愛情は、欧米の人々にはおよそ理解しがたいものであるらしい。敗者を断頭台に送り、諸悪を敗者に見出すという勝者の常識を欠く不思議な人物に映ったようである。
 西郷さんの革命家としての手腕や指導力について様々な見方がある。しかし、鹿児島県民のみならず日本人の西郷さんへの熱い想いは、その功績はもとより「敬天愛人」の精神を貫いた純心で邪心のない堂々とした生涯への支持、賞賛のようにも思われる。私たちは高邁な哲理や世俗の打算のみで生きているわけではない。

 鹿児島県下には城山下(中央公園。写真左上)の西郷像など顕彰碑が随分多く、それはかつて西郷さんに下された流刑の跡を追うように奄美大島、沖永良部島などの奄美諸島にまで及び、今なお西郷さんは地元の人々の尊崇を得ている。多くの顕彰碑などは、武人の清々しさをも備えた西郷さんへの県民の惜しみない賛美の証。優れた自然の眺望ばかりが絶景ではないであろう。西郷さんの顕彰碑などに接し、地元の人々の西郷さんへの熱い想いに接すると、どうしても「西郷さんの風景」を鹿児島絶景100選に加えたい衝動に駆られてしまう。その偉業と人格の高潔さなどにおいて、西郷さんは間違いなく日本の不世出の巨星であろう。
 市内の武町にある西郷屋敷跡の一隅に、西郷さんと菅実秀(旧庄内藩家老)が静かに向き合う像が顕彰されている。菅実秀は戊辰戦争で官軍に破れ退路を絶たれた人であったが、西郷さんに助けられその徳を慕って遠路、7名の旧藩士とともに来鹿し、西郷さんの教えを受け、「南州翁遺訓」を著した人であった。二人の徳人を訪ねる旅もよいだろう。→沖永良部島の西郷さん
私学校跡 私学校石垣に残る弾痕 西郷と菅像(武町)
私学校跡 石垣に残る弾痕 西郷と菅(西郷屋敷跡)

奄美大島(西郷舎) 沖永良部島(西郷神社)
奄美大島(西郷舎) 沖永良部島(西郷神社)