沖永良部島は、鹿児島から約540キロメートル、周囲56キロメートルほどのサンゴ礁の島。島の南西端に田皆岬(たみなみさき)がある。険しい断崖で、白い花をつけたユリがゆらゆらと揺れている。島には白ユリの花がよく似合う。
紺碧の洋上に、潮を吹きながらゆったりと泳ぐ鯨の群れが見える。
豊かな自然に恵まれた島は、アダンの木が茂り海岸線は起伏に富む。島の西海岸で、隆起したサンゴ礁はカルストの断崖をなし或いはフーチャ(侵食洞窟)となって海が荒れる日には洞穴から数十メートルも潮を吹き上げる。その東西に荒涼としたフーチャの奇観が続く。海の彼方から蛇皮線姿の唄者(ウタシャ)の島歌が聞こえる錯覚を覚える。荒々しい西海岸は、波をもろに受け易いこの島の細長い地形とも多分に関係があるのだろう。
沖永良部島は、高齢者も若者も生き生きと暮らす島。和泊町の出生率は全国のトップクラス。島の優れた自然が人を育む。 |
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海水や雨水に浸食されやすいサンゴ礁の島は、内陸にもまた洞窟や湧泉を産む。島の西部で、延長2.7キロメートルほどの昇竜洞(鍾乳洞)が発見されている。うち約600メートルほどの区間が通行可。洞内に巨大なドーム状に発達した空間が何箇所かある。天井から石柱が垂れ下がり或いは地から生え出る。壮観である。
島内の集落は、「泉」の周りに発達している。泉は、水汲み場であり洗濯場であった。島民のコミュニティをはぐくむ憩いの広場でもある。30キログラムにもなる桶やバケツを頭に載せ、水を運ぶ仕事はもっぱら女性や子供の仕事だった。その姿も簡易水道の整備によって、昭和30年代には消え、苦しい労働から解放されたという。和泊町の歴史民俗資料館に当時の水汲み風景の写真が展示されている。バケツを頭にした少女の目は、だれよりも明るく生き生きとしてみえる。 |
昇竜洞 |
ジッキョヌホー(湧泉) |
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島は亜熱帯海洋性の気候。年平均気温は22度。ソテツ、アダン、デイゴ、ガジュマロの木が豊かに茂る。ガジュマロは、防風林や盆栽などとして島民には特に親しみのある木。島の北端近くの国頭小学校の校庭に、樹齢約100年、幹周り8メートル、枝振りの直径22メートルの巨大な日傘のようなガジュマロの木がある。枝振りの大きさでは日本の頂点に立つガジュマロである。ガジュマロは奄美諸島などの島嶼部でごく普通にみられる木。このガジュマロは卒業の記念樹として明治期に植えられものであるらしい。大事に扱われ、すくすくと姿よく成長している。
ノロ、風葬などの習俗も琉球的である。風葬址が笠石公園近くに保存されている。死者はこの美しい海岸近くの岩穴で風葬され、洗骨の後、瓶に収められ手厚く供養された。近年、火葬が普及し風葬は行われなくなったという。
沖永良部島の和泊町は出生率日本一の町である。島の豊かな自然が子育てにも大変よい環境を提供しているのだろう。沖永良部島はいま、エラブユリなどの花きの出荷やサトウキビの収穫で農家は猫の手も借りたい繁忙期である。道端のソテツの切り株の上でヤギが申し訳なさそうに鳴いている。 |
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沖永良部島は島津久光公の怒りに触れた西郷隆盛の1年8か月に亘る流罪の地.。牢屋(刑舎)など西郷さんゆかりの遺物が保存、顕彰されている。西郷さんは、窮屈な獄舎でいつも正座をし囲外に島民の姿が絶える日はなかった。決して威張ることもなく古今の聖賢の道や凶年への構えなどを説き、帰藩のおりには愛蔵品を身の回りの世話をした島民に惜しげもなく与えた。
西郷さんの敬天愛人の思想は島の獄中生活からうまれたとされている。島民の西郷さんへの尊崇の念は強く、明治35年、南州神社(写真右)が島に建立されている。→西郷さんの風景 |
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木陰の風景 慟哭の海岸 琉球残影 田皆岬 昇竜洞 |