大隈諸島の洋上に、三つの島が東西に並ぶ。竹島をいちばん東にして、中央が硫黄島(鬼界ヶ島)、その西が黒島である。さらに黒島西方の東シナ海の洋上に、宇治群島や草垣群島が浮かぶ。島々はおおかた竹に覆われ、主産業は畜産や漁業、椿の栽培などである。3島では、古くは木綿が栽培され、硫黄島から産出する硫黄は島の貴重な資源であった。硫黄岳に残る搬送用鉄塔の残骸が、近年まで続いた硫黄採掘の歴史を物語る。
島民の生活は、鹿児島と3島間を巡航する三島村営のフェリー・三島丸(1196トン)によって支えられている。フェリーは、3島と鹿児島間を隔日ごとに巡行し、島民や生活物資を運ぶ生命線であるとともに、南海の楽園に観光客をいざなう船である。
鹿児島発のフェリーが竹島に着岸すると、郵袋、牛乳パックなどを受け取る人、船腹脇のデッキクレーンからコンテナやプロパンガス、ドラム缶などの荷降ろしをする人たちがかいがいしく働き、手際よく作業が進む。岸壁に生き生きとした時が蘇る。フェリーは所要20分ほどで竹島を離岸し、硫黄島、黒島に向かう。
硫黄島は、鹿児島の南方100キロメートルほどの海上に浮かぶ人口150人、周囲30キロメートルほどの島。硫黄港から流れ出る茶褐色の帯がフェリーを島へといざなう。フェリーが湾奥へ進むと、接岸岸壁の海面は一層濃く茶褐色に染まり、火口の上に港が浮いているかのような印象を受ける。島の東部で紺碧の空を白く染める硫黄岳(704メートル)、昭和9年の爆発によって海上に姿を現した新硫黄岳或いは島周辺のところどころから染み出て海面を染める茶褐色の帯が、いまなおこの島が活きた火山島であることを黙示する。
■硫黄島は、歴史に彩られた島。鹿ケ谷事件で平家討伐を謀った俊寛僧都、平康頼、藤原成経の流刑の島である。平家物語や源平合戦記などで読まれ、琵琶法師によって語り継がれてきた俊寛の哀れをとど
める島。鹿ケ谷事件発覚後、俊寛らの捕縛にいたる経過は定かでないが、首謀者の藤原西光が阿波国の在庁官人であったよしみから俊寛は阿波に逃れ、そこで捕縛されたとする説がある。都へ送られる俊寛が涙した松が現在の徳島県阿波町小倉に「俊寛涙の松」として保存されていたが、大正期に耕地整理によって伐採されたと土地の人は言っている。跡地に標柱(写真上右)が立ち、涙の松で作った座机が標柱近くの薬師庵に残っている。ともあれ俊寛らは、薩摩の俊寛堀(写真上左。現鹿児島市)から硫黄島に流されたのである。
■日本書紀は白雉5(654)年に吐火羅の男女各2人が日向に漂着した記事をのせている。続いて斉明3(657)年に都貨羅の男女4人が筑紫に着いたので上京させ歓待した等々、トカラやヤクの人々の漂着記事がみえはじめる。朝鮮半島における高句麗や新羅の勢力が強くなると、中国への航路が次第に南下して、奄美から東シナ海を横断する航路に関心が高まったこととも大いに関係があったのだろう。しかし、唐との国交が冷めはじめると天長元(824)年、タネ国の大隈国への併合が行われるなど、朝廷の南島への関心が次第に薄れはじめる。
中世の南方方面の国境は定かでない。たぶんトカラ列島辺りが統治の及ぶはずれの地域ではなかったか。トカラ列島の入口に当たる硫黄島の別称は「鬼界ヶ島」である。源平合戦記や能などによって語られる硫黄島はなにかしらおどろおどろしい絶海の孤島のようなイメージが重なり、次第に強調されいつのまにか人々の脳裏に「鬼界ヶ島」の名が刻印されてしまったのではないだろうか。
■硫黄島は紺碧の海に浮かぶ南国の楽園。台湾、沖縄を経て鹿児島本土に連なる諸島のひとつである。古来から海上民が奔放に往来し、南方文化や大陸文化を中継する島ではなかったか。硫黄岳から産出する硫黄などの移出物によって島は潤っていたであろう。硫黄島の高みから本土の開聞岳や屋久島などの島影を見るつけ、そのように感ずるのである。
■硫黄島の集落は、長い断崖が続く湾奥に開かれた硫黄港にへばり付いてある。集落から稲村岳(236メートル)の山麓を縫うように椿林の林道を往くと、深い森に「俊寛堂」がぽつんとある。かつては、堂脇の谷川沿いに小径があって集落と往来できたようであるが、谷は土砂で埋まり、林道の脇から俊寛堂まで50メートルほどの小路が造られている。天上は竹で覆われ、日陰となった小路にうぐいす色のコケが密生する。心地よい感触は絨毯の上を歩いているようである。京都の苔寺、越前の平泉寺境内のコケなどと同様にきめこまかで美しく、弾力に富んでいる。不思議なコケである。 |
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■平康頼は、後に許されて帰京。俊寛は許されることなく、島で息絶えた。平家ゆかりの安芸(広島)の厳島神社(写真左)に康頼が献じた灯篭が残り(写真左下)、京都東山の双林寺の本堂横に墓がある。寺運隆盛のころは、鳥羽天皇の皇女や土御門天皇の皇子が住職になり、
康頼や西行、頓阿が庵室を結んでいる。康頼の宝篋印塔の墓を中央(写真左下)にして、その右手に西行、左手に頓阿の墓がある。京都紫野の大徳寺の康頼供養塔は高い基礎の上に地蔵菩薩が奉安されている。
日名子実三(彫刻家、昭和20年没、大分県臼杵市出身)は、俊寛の絶望と哀れにヒントを得て作品・「廃墟」を製作している。その銅像が臼杵城址(写真右)に建っている。また、倉田百三は戯曲「俊寛」を著している。福岡市の金龍禅寺に文学記念碑がある。
俊寛堂を下ると「安徳天皇」など平家ゆかりの墓所がある。平家とその討伐を企てた俊寛僧都、政敵がそろって硫黄島に同居する不思議は、日本人の平和感覚を反映したものかも知れない。しかし史実として否定もできないであろう。帝が壇ノ浦で崩御されたという立証が困難であれば、落人として生存していた可能性もまた否定できない。島には安徳帝の末裔が住み、落人が経文を記した小石を大事に保存している人もいるという。
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平康頼墓(双林寺) |
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平康頼供養塔(大徳寺) |
■島の南西部に架けられた「岬橋」を渡ると、「恋人岬」がある。この辺りから硫黄岳、稲村岳の南面が俯瞰できる。島一等の眺望であろう。岬橋から島の最西部に抜けると、島一等の畑地は牧場や枕崎空港からのチャーター便が飛来する飛行場になっている。島民の緊急時の足として、三島丸とともに島と本土を繋ぐ命の絆である。
■硫黄島の先人は、2月、8月の航海を戒めた。しかしこの日、沖はなぎ猟師が一人、岸壁に船を着け刺し網を広げている。網の目に刺さったワカナ(メジナ)、ブダイなどが跳ねている。浜近くのアコウやガジュマロのたもとで、のんびりとお年寄りが世間話に余念がない。道端の椿の下でまどろむ孔雀を横目に、孔雀の数が島の人口を上回ったと笑う。島には、地元の子供や本土からの子供留学生、里親のもとで育つ子供が合わせて20人ほど生活する。硫黄島の自然はまた子育てに大変よい環境を提供しているのだろう。青々とした稲村岳の麓で硫黄島に平和の時が流れている。 |
中村勘九郎のこと |
平成8年5月、硫黄島の長浜で歌舞伎”俊寛”の公演が催された。中村勘九郎ら一行が来島し、浜は800人ほどの観客であふれ賑わった。勘九郎は、島に迫真の芝居ばかりでなく、その人となりとのエピソードも残している。
“勘九郎は島に上陸すると、手配の車を固持し俊寛堂まで歩き、公演が終わるとまた歩いて俊寛堂までお参りした。そして、島の自然は昔そのままで変わりはないが、自分だけがニセモノと嘆き、島を去る日には船のデッキで止めどなく涙を流した”という。勘九郎の言動、心中は知る由もないが、‘俊寛’への執念がそのような言動となったのではないだろうか。大舞台を踏んで久しい勘九郎ほどの俳優においても、演技に自問自答しながら、苦悶する日々が常在するのかもしれない。俊寛が生き、そして息絶えた硫黄島に上陸したその瞬間から俊寛を写し取ろうとした勘九郎こそ、役者魂に溢れた名優というべきであろう。
落語の六代目三遊亭円生は、“・・・あたしはぜったいおのれの芸に安心できない。おのれをしるといいますか、昔のうまい、名人てえひとをきいて知ってるんだから、それとくらべれば、こんにち自分のハナシなんてものは、実にお恥ずかしいもんだと思ってるんですよ。・・・<「人間の科学」創刊号、昭和38年7月>”と語っている。名人の名をほしいままにした円生のさりげない言葉である。
勘九郎にして欧州の人々が激賞した父勘三郎の‘俊寛’がいつも脳裏に焼きついているのかもしれない。昭和40年、ドイツ、フランスなどで上演された勘三郎の‘俊寛’は、欧州の人々を熱狂させ、毎夜、十数回のカーテンコールがあったという。
歌舞伎で演じられる‘俊寛’はもともと大近松が浄瑠璃の脚本として書き下ろしたものだ。近松は坂田藤十郎存命中は歌舞伎の脚本を書いていたが、藤十郎が亡くなると浄瑠璃作家の道を歩むようになる。しかし、浄瑠璃と歌舞伎は近い関係にあり、デデンもの(義太夫狂言)として人形浄瑠璃から随分多くの作品が歌舞伎化されてゆく。‘俊寛’もそのひとつ。義経千本桜や仮名手本忠臣蔵、菅原伝授手習鑑など枚挙にいとまがないほどであり、デデンものが歌舞伎の主流を成しているのである。−平成15年− |
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硫黄島(鬼界ヶ島)) |