九州絶佳選
福岡
貝原益軒−福岡市中央区今川−
 貝原益軒と平賀源内は万能の天才の名をほししままにした近世日本の巨頭である。源内はふとした出来事から人を殺め獄死をするが、益軒は福岡藩主・黒田忠之の怒りにふれ二十歳のころ7年間の浪人生活を送るものの、再び出仕するようになってからは順風の生活に終始し85歳の長寿を全うした。両天才の後半生は明暗を分けたが、ともに学問によって民生の発展に尽くした人であったことには変わりがない。
 益軒は生涯に60部270余巻の書物を著し、筑前の鴻儒といわれた人。著述は儒学、本草学、医学、地理、歴史など諸分野に及び、養生訓、大和本草、黒田家譜、筑前国続風土記など今日においても名をなすものが実に多い。70歳で黒田藩を退役した後も執筆意欲は衰えることはなく生涯、著述三昧の日々を過ごしたという。妻の東軒は秋月の人。益軒の業績をよく助けた才女といわれ、1713年(正徳3年)、益軒より1年早く亡くなった。
 益軒の著作の多くは京都の書店から藩費によって刊行されている。益軒の著作が広く流布したのもそのような事情にもよるものであろう。
 貝原益軒の墓所は、福岡市中央区今川の金龍禅寺(写真左上)にある。夫人の東軒の墓と隣り合わせになっている(写真下)。墓の傍らに端座した益軒の大きな銅像(写真右)が建っている。
 金龍禅寺は、大正年間に倉田百三が家族とともに1年余り仮寓、静養し、戯曲「俊寛」を執筆したところ。百三は当時、境内にあった貝原益軒記念堂に住んでいた。記念堂はその後金龍幼稚園となり、今は幼稚園の建物も跡地が残るのみである。境内に文学記念碑(写真下)がある。 −平成17年10月−

貝原益軒の墓(金龍禅寺)

倉田百三文学記念碑(金龍禅寺)