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大分 |
臼杵の町−臼杵市二王座等− |
臼杵は城下町。長屋門を備える武家屋敷やナマコ壁の商家が静かな雰囲気で佇んでいる。
臼杵出身の文人・野上弥生子や彫刻家・日名子実三のイメージなどが重なり、二王座の石畳に落ちる旧家の大屋根の日陰や甚吉坂にすら、なにかしら臼杵の落ちついた高尚な伝統を感じてしまう。
しかし、臼杵城の石段を踏み本丸、二の丸を歩くほどに「国崩し」の大砲などを目にすると、臼杵はやはり大友宗麟が九州に雄飛し豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の六国にとどまらず日向や伊予の半国を支配した拠点の町、と改めてふたつのイメージが重なるのもこの町の不思議な魅力のひとつであろう。
宗麟が居城を府内城(大分城)から臼杵城に移したのは、永禄6(1562)年だった。その24年後、薩摩の島津軍に攻められ臼杵城が落城すると、宗麟は秀吉に援軍を求め名目を保ったが、その子義統が朝鮮出兵(文禄の役)で失態を演じ改易。その後、臼杵城主は、福原氏、太田氏と代わり、太田氏に次いで郡上八幡から稲葉氏が5万石で入封し、戦乱によって荒廃していた臼杵城下の復興が進められた。以後、臼杵城は明治維新に至るまで、稲葉氏15代の居城として命脈を保ったのである。第三代将軍・徳川家光の乳母・春日局は、稲葉氏と親類筋。二王座辺りでしばらく居住したと伝えられる。
宗麟は南蛮貿易や朝鮮貿易などを行い、カソリックの洗礼を受けドン・フランシスコと名乗ったキリシタン大名。ローマ教皇に伊東マンショら少年使節を送り、フランシスコ・ザビエルとも面識があった。臼杵城二の丸に展示されている大砲「国崩し」(レプリカ)は宗麟がポルトガル貿易によって手に入れたものと伝えられる。 |
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