鹿児島の島々
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与論島
与論島 “島周りのリーフと深海を分ける波頭は真珠のネックレス、紺碧の空に浮かぶ白雲はダイヤのカケラ、くびれた胴はビーナスのため息。美しい海岸は久遠の証。大金久海岸、百合ヶ浜、兼母海岸などの海浜が島周りを飾り、けし粒ほどの星砂がウミガメを育む。嗚呼、この島は無垢の小島、真珠の小島。南海の洋上にきらきらと輝く乙女の島”
 与論島は、鹿児島の南方約600キロメートル、奄美諸島最南端の周囲22キロメートルほどのさんご礁の島。島は概して平坦である。島一番の高み(最高峰、標高94メートル)に登ると、与論城址に琴平神社、地主神社が祭られ、「母国復帰記念碑」(昭和28年復帰)が建つ。その少し下ったところに「サザンクロスセンター」があり、歴史民俗資料が展示されている。シーズンには南十字星の最北端の展望地として賑わう。この丘で年3回(旧暦3・8・10月の各15日)島の安穏、五穀豊饒を祈る伝統芸能・「与論十五夜踊り」が催される。この高みはさしずめ与論の文化ゾーンである。
与論城址から望む
与論城址から望む
与論城址
与論城址
大金久海岸
大金久海岸
地主神社
地主神社
 与論は琉球(沖縄)の伝統、文化を色濃く受けた島。15世紀の初頭、与論は沖永良部とともに琉球北山朝の世之主(せのぬし。島主)によって統治された。方言や家屋、墓所その他の祭祀の在り方などにその影響が残る。沖縄本島まで23キロメートルと近く、かつて島に乏しい用材などは琉球から移入された。
 さんご礁の美しい島も、台風や干ばつなどの災害との闘いの歴史がある。平坦な島は水の確保が課題であるが、サンゴ礁の隙間に雨水が貯蔵され、地下水脈を通じ湧水を島民にプレゼントする。サンゴ礁は樹木や水田のように保水機能を持つ天然のダム。しかし、ひどい干ばつや人口の増加は水飢饉となって島民を苦しめ、地下水の揚水施設が整う以前まで、島民は日常から樹木から集水する用意を怠ることはなかった。さらに、耕地に恵まれない島は、戦後の人口の増加によって食の飢饉にも直面した。昭和32年、240名の島民が長崎県口の津へと集団移住し、2次、3次の移住も行われた。口の津の資料館に与論館(写真右)ができ、当時の長屋や生活用具などが保存・展示されている。与論の道端で何事もなかったかのように、大輪の真っ赤なハイビスカスの花が紺碧の空にそよいでいる。
芭蕉布紡ぎ工程
芭蕉布紡ぎ工程
(民俗村)
集水施設
雨水集水施設
(民俗村)
琉球造りの民家
琉球造りの民家
(民俗村)
かまど
かまど(蓋は本土のシキに酷似)
(民俗村)

与論城址 大金久海岸