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西条町上三永を通る国道2号線北側に石門が保存されている。石門はいわゆる水道橋のひとつである。石門の設置の経緯や直下を国道が通るという珍しい形態が、国道の改築にまつわる住民と国との苦難の交渉経過をともない、民俗資料としても興味が尽きないものがある。 石門は、国道(国道2号線の旧々道)の敷設に伴って、呉の広村の石工 その橋も引退のときが来て、今は公園化された現地に移転復元され、第二の働き場所としている。 稲作を農業経営の根本としてきた我国では、農業水利の途絶は死活の問題となる。道路建設は無論、河川改修、ダム建設或いは住宅開発等、土木工事に伴う水利の確保は、農業者との重要な協議事項とされてきた。三永の石門は、そうした永い歴史のひとこまを示す記念物であり、日本唯一の石門だった。−平成18年5月− |
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太田川の支流・三篠川の上流に高大地という集落がある。山向こう(北側)は、戦国武将・毛利輝元の本拠地・吉田である。水系が異なっていて吉田は江の川、高大地は太田川水系という泣き別れの分水嶺が両者を分けている。 高大地は、明治初年に廃止になるまで二百年余続いた「高大地湊」の旧蹟(写真)だ。 江戸期の舟運は、私たちが想像するよりはるかに細流に及んでいる。中国山地の中央部から荷物の積み替えをしながら瀬戸内海へ或いは日本海の河口部にまで運ばれたのである。 今日、川の上下流で床固工や頭首工などが施され、川相が変化した結果、舟運は信じがたいほど衰退の一途を辿ったのである。 高大地湊もそうした湊の一つだ。「先祖がこの川の舟運によって米問屋を営んでおりました。四、五代も前のことになりますが・・・。当時のものはほとんど残っておりませんが、舟板を保存しております。」と、かつて問屋だったという家系の人。高所の道路端から川を見下ろすと、湊の荷動きが俯瞰できたのであろう。水量にもよるがひと舟で、10〜20俵の米を積んだという。湊跡は今、三篠川の清流に包まれている。見上げれば満開の山フジが初夏の訪れを告げている。−平成18年5月− |
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