大阪
猪甘津の橋−大阪市生野区桃谷−
しのぶれど 人はそれぞれと 御津の浦に 渡りそめにし ゐかい津の橋  <小野小町歌集> 
 出会い橋、別れ橋、再会橋・・・。人は橋の袂で情を通わせ、折々の泣き笑いを橋に刻みつけてきた。新しい文化や情報は橋の向こうからやってきて、やがて生活の糧となり、潤いとなるのだった。
 橋は始め丸太橋或いは縄橋、蔓橋であったのだろう。それが桁橋、鞘橋、呉橋、石橋などに発展したのであろう。橋には多様な文化が塗り込められてきた。
 文献にあらわれるれる最古の橋は猪甘津の橋である。日本書紀の仁徳天皇14年の条に、「冬十一月、猪甘津に橋を為(わた)す、即ちその處を号(なず)けて小橋と曰う、云々」とある。猪甘津は今の大阪の猪飼野。後年に編まれた延喜式にいう摂津の百済郡内に架けられていたのだろう。百済はやがて住吉から東成へと郡編成が遷移し、今の大阪市内に含まれる。橋は百済川(旧平野川の古名)に架かっていたのだろうが、度重なる河川改修や猪飼野が東成区と生野区にまたがる地域の呼称であるため、橋の特定をはなはだ難しくしている。具体には橋が架かっていたという「小橋」すら、今の生野区桃谷3丁目か東成区東小橋のいずれの地区内に存したものか釈然としないのである。
 地元では、平野川に架かり、鶴の橋と呼ばれた廃橋(生野区桃谷3丁目)を猪甘津の橋に比定されている。平野川の付け替えによって旧河川敷は住宅地となったが、鶴の橋跡は公園化されその記念碑(昭和27年建立)と鶴の橋の親柱4本が保存、顕彰されている(写真上)。もちろん、原初の猪甘津の橋の規模、構造などは不詳であるが、書紀にとどめられ、小野小町がそれを特記してうたうように古来、猪甘津の橋は「橋の創」としてよく知られていたのである。それはまた、倭の五王の時代、いわゆる河内王朝が海外に雄飛したころ、大阪湾沿岸とりわけ猪甘津は百済の帰化人が住み、大陸の先進的な文物が溢れるところだったのだろう。日本書紀は、仁徳天皇の先代応神天皇のころ、王仁や弓月の君の来日を伝えている。王仁の後裔は西文氏として名を成し、朝廷の記録や出納に携わった。それは王仁墓の伝承地が今の枚方市内に所在するように、帰化人が単に古市にとどまらず、河内に広く居住していたことを思わせる。
 仁徳天皇の高津宮は猪甘津に近い。天皇が鷹狩りの途中、猪甘津の森で休憩されたという伝承がある。今の御幸森天神宮の鎮守がそれという。百済川(旧平野川)は御幸森天神宮近くを流れ、川舟が往来する重要河川であった。大坂城代松平忠明が寄進し、旧平野川の要所に建てられた灯明台の1基が御幸森天神宮の境内に保存されている。折から鎮守で夏祭りが挙行されている。今日は7月19日。御幸森天神宮の本宮祭。街に神輿やダンジリが行く。路地一杯のダンジリは随分大きく、立派なものだ。猪飼野の街は活気のある街。
 御幸森天神宮に接して、御幸通りが市街を貫き、人々をコリアタウンにいざなう。百済門は観光客誘致の象徴であろう。お昼どき、対面販売の食材店や飲食店は観光客や地元の買い物客で賑わっている。−平成21年7月−

つるのはし跡公
園記念碑
御幸森天神宮夏
祭り(ダンジリ)
御幸森天神宮夏
祭り(神輿)
コリア タウン 
(百済門)