| 丹後半島北海岸を往く-京丹後市- |
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京都の北部に丹後半島がある。国道178号線がその突端(最北端)経ヶ岬を周回する。国道に沿って丹後半島の北海岸をたどると京都府最西端の久美浜に至る。
丹後半島の北海岸は、断層運動によって形成された海成段丘が対馬海流や風波の浸食作用を受け、櫛先のような半島や岬を研ぎだし或いは段丘上に狭隘な平野をうみ、その背後のなだらかな傾斜地に人が住みなしている。
人類の歴史はせいぜい400万年。自然の営みは、人類のそれと比較のしようがない遠い過去を背負いつつ、美しい海景をつくり、更新しつづけている。丹後半島の海景もまた、そのような地球の歴史を刻んだ日本海の絶唱といえそうだ。
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経ヶ岬の標高130㍍にもおよぶ断崖に白南風隧道を貫いて昭和37(1962)年、国道178号線(周回道路)が開通した。大野ダム竣工(京都北部)の1年後の開通だった。以来60年余、周回道路は丹後半島の生活環境を一変させたことであろう。
京丹後市丹後町袖志
経ヶ岬から国道を西に下ると袖志集落がある。
袖志は近畿地方最北の集落。消波ブロックで固められた道路の背後に住居がたち並ぶ。日本海に直面したこの町に風もないのに波浪が立ち、海浜はざわめている。
(袖志の海女)
海を抱える袖志は海女の町だった。
今、集落の半数以上が高齢者。海浜の他の集落と同様に、生業の漁業や段丘上の田畑や棚田でコメや野菜をつくり生計をたてる。
かつて袖志の海女はみ数名で漂白しながら櫓櫂を操り、隠岐島や越前海岸まで出かけ漁撈生活をする者がいた。瀬戸内海の家船や宗像の海女ほど行動範囲は広くはなかったが、若狭湾に雄飛し一部地域に漁業権を得る者もいたという。
風をよみ、潮の流れに逆らわず櫓櫂を繰り、潜って海藻を捕る海女の潜水技術は丹後一。やっかみから袖志の盗っ人船といわれることもあったという。
(風の兆)
袖志の海に‘イセチ’が吹く。春先から南風が吹き始め次第に風向きを東に変え、5月初旬の土用明けのころまで吹く風をそう呼ぶ。潮と風向きをよみ間違えると船は沖に流され、海難にいたる。
袖志の海が怖い海であることには今も変わりはない。磯に近づくことさえ手足が震えるような漁場が随分ある。波静かな日、磯でノリ掻きが行われている。しかし今、マツシマメガネ(競泳用のメガネに類似)をかけ水没して漁をする海女の姿はみえなくなった。
京丹後市丹後町尾和
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| 海成段丘1 |
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| 海成段丘2 |
袖志集落をぬけ半島を西に進むと、国道の左手に尾和集落がある。
汀線が隆起し離水した海成段丘が海岸に向って幾筋も伸び、段丘上に水田がひらけている。
5月、田植の準備(起耕)がはじまった。そこは丹後半島東海岸の伊根町新井崎の海成段丘と似ている。尾和のそこは海抜20㍍ほど。段丘面は新井崎よりだいぶ低い。沖ゆく船に尾和集落のありかを告げている。
(十三仏板碑)
尾和集落の田んぼを海岸に向って歩むと海成段丘の先端に墓地がある。入り口辺りに、額部に二重線を刻んだ「十三仏」の板碑が立っている。
額部の下に種子を刻み、5段に彫り分けてある。劣化によって初仏の不動明王の種子は剥落し、板碑の造立年、造立者ともに文字が読みとれない。海浜の気象の厳しさが丹後にはある。
「十三仏」は室町時代ころ始まった故人の追善供養の信仰。初七日から三十三回忌までの間、逮夜(忌日の前日)ごとに十三仏を描いた軸を掛け、故人の成仏を祈る信仰とされる。
尾和の十三仏は仏間の軸ではない。板碑に種子を寫した野面のそれで私は丹後・丹波の集落で目にしたことはない。有難く拝ませていただいた。
十六体仏を刻んだ普賢寺集落の天王板碑(京田辺市)や九度山慈尊院(伊都郡九度山町)でレリーフの種子名号板碑を見たことはあったが十三仏のそれを私は見たことがなかったのである。
十三仏信仰の主旨は、忌日に故人の生前の行いにつき、まず閻魔王の審問による裁判を受け、判決によって地獄に落ちないよう地蔵菩薩の助けを乞い、成仏を願うというもの。故人は成仏できるまでに十三回、異なる裁判官から審問を受けその都度、異なる仏の助けを得てようやく成仏できるのである。宗派により教義上の解釈から十三仏供養を行わないところもある。
尾和の人々は十三仏信仰により故人はもとより己の成仏をも願う‘逆修’の願いを込め、墓地に板碑を立て、日々の精進を誓ったのだろう。
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| 板碑群(丹後半島) |
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| 化粧地蔵(宮津市宮前) |
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| 由良ヶ岳山麓(宮津市) |
(丹後の地蔵信仰)
丹後では尾和に限らず今も祠や道端に、法華塔や金剛塔、板碑地蔵などが丁重に祀り生花が活けてある。
明治初年のころ政府の方針によって道端に祀られた庚申塔などの雑宗石碑の撤去が進められた。しかし地蔵信仰が盛んな丹後では今でも、海浜から山岳部の集落に至るまで丁寧に化粧が施された六地蔵を祀り生花が供えてある。
不慮の災害によって死亡した者や水子などの救済は六地蔵に頼るしかなく、厳しい自然と向き合いながら暮らす人々のお地蔵さんに寄せる祈りが尽きることはない。
若狭湾南部のライフライン・京都府道45号線を由良川河畔から宮津に向かうと、由良ヶ岳山麓の集落に奇麗に化粧した六地蔵を見かける。崖地の多い厳しい環境にありながら、お地蔵さんと寄り添って暮らす人たちの水田管理に手抜かりはない。堅実な生活と手抜きのない田作りにお地蔵さんも微笑まれているようにみえる。 |
海岸の自然と離湖
丹後半島の海浜の集落の多くは砂州が発達した小湾の背後にひらけている。夏、海岸は海水浴でにぎわい鳴き砂が音色を競う。
湾口の大きさはそれぞれ異なる。琴引浜、八丁浜、久美浜と半島の西に行くにしたがって砂浜の規模が長く大きくなる。
砂州は左右から発達し、天橋立や久美浜湾のように繋がり、やがて海から遮断された離湖になる。その一つ、網野町の離湖がそれ。古来、人気の観光地となっている。
丹後半島北海岸の砂嘴のある浜の多くは離湖となる運命にある。
砂浜の保存対策として砂丘への植樹などが講じられている。 |
台地の集落-京丹後市丹後町中浜、久僧、上野、平等
尾和集落を過ぎ国道178号線を西に向うと中浜、久僧、上野、平、此代の集落(いずれも京丹後市丹後町)が連なっている。
人口規模の大きな中浜(230人余)集落がその海岸線のハブ集落。郵便局がある。一帯は海水浴や浜歩きなどで賑わうところだ。
浜それぞれに小河川が流れ込み、河川段丘や海成段丘上で稲作や果樹の栽培が行われている。
(宇川の河口)
上野-平集落の間に宇川の河口がある。
海岸線と集落が近接し、背後に200㍍余の山が迫る複雑な地形をなす。
中浜、上野の集落を縫うように国道178号線が通り、海抜10㍍にも満たな道は河口辺から急カーブして宇川を這い上がり平集落に迫る。波を被るような悪天候の日もあるだろう。経ヶ岬と国道178号線との接合部とともに難所の一つであろう。
国道は大陸と向き合って在り、国防や集落の災害防止上、丹後半島の東海岸(旧要塞地帯と通称される)と対をなす重要なライフライン。景観の維持とともに様々の視点から道路整備のあり方について検討が求められる地域であるだろう。
(宇川のアユと民俗芸能)
宇川はアユなど渓流魚が遡上する丹後の河川の一つ。内水面漁業(採捕に届出等の規制あり)が行われる秘境の川。最上流部に鳥も通わないといわれた細川ガラシャの隠棲地味土野がある。流域の野中は宇川の真珠、美しい集落。ビンザサラ踊など貴重な民俗芸能が伝えられている。
犬ヶ崎の海景(此代)
此代集落(京丹後市丹後町)の西に海中から生え出た犬ヶ崎(標高251㍍)が聳え、手前に展望所がある。
そこから見渡す平、上野、九僧など下宇川一帯の海景は
日本三景のひとつ松島(宮城県)に例えて‘丹後松島’と賞される絶景ポイントの一つ。
延々と続く小湾の岬や岩礁の風景(写真左上)は一幅の軸をみるようだ。
丹後北海岸にはもう一つ丹後松島と対極の海景がある。袖志や竹野海岸の大成古墳公園からのぞむ海成段丘や断層崖が続く海景(写真左下)がそれ。難読地名の‘間人(たいざ)’の淵源の海景と考えられる。(後述)
竹野集落の風景-京丹後市丹後町竹野-
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| 竹野海岸(犬ヶ崎をのぞむ) |
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| 大成古墳群 |
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| 竹野川河口・立岩 |
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| 間人の後ヶ浜海岸 |
竹野は農漁村集落。海岸は弓月の浜。左手に漁港、右手に砂浜が続く。
集落から国道178号線をはさんだ裏山に、縄掛突起のある組合せ式石棺が出土した産土山古墳がのぞいている。
漁港の西に大成古墳群がある。古墳の石材は海岸周りに林立する柱状節理をなす溶岩マグマ。野辺でハマダイコンが浜風に揺れる風景に囲まれて古墳はある。公園化され、展望の良いところだ。
大成古墳群から西方を眺めると竹野川河口に立岩、後ヶ浜(海岸)、間人集落が連なってみえる。
竹野川の河川延長は27.6キロメートル。丹後一の河川(二級河川)。
近年、竹野川河口辺りは国道178号線の整備、竹野川の改修、農地改良と相俟ってアウトドア-施設や‘道の駅てんきてんき丹後’の開設など観光開発が進みつつあり、訪れる人も多いところ。
竹野川流域の氾濫原は今、土地改良によって海抜2㍍ほどの田圃に整地されている。往古は潟湖(ラグーン)。山際の集落越しに北から産土山古墳(円墳。径54㍍)、竹野神社(延喜式内社・大社)、新明山古墳(前方後円墳・墳丘長190㍍)が居並ぶ(写真参照)。 往古は潟湖に出入りする船人の癒しどころだったに違いない。
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| 新明山古墳等竹野遠景 |
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産土山古墳と石棺
(現地案内板引用) |
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| 竹野神社 |
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| 神明山古墳 |
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| 蛭子山古墳 |
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| 網野銚子山古墳 |
竹野川河口部は古代遺跡の展示場。潟湖の弥生遺跡から住居跡や土師器、須恵器などが出土し、「道の駅てんきてんき丹後」傍の公園に展示されている。
(産土山古墳)
産土山古墳は竹野漁港裏手の海抜18㍍ほどの断崖上にある。直径約50㍍の円墳。
丸みのある蓋石に縄掛突起のある凝灰岩製の長持型石棺や埴枕、勾玉等玉類、変形四獣鏡、冑、短甲、鹿角制鉄剣など豊富な武具が出土し、併せ石棺から遺骸、毛髪が出土した。調査(昭和14年)後、埋め戻されたという。
(竹野神社)
社は鬱蒼とした樹林に鎮座する延喜式内社(大社)である。
立派な中門(向唐門)をくぐると規模の大きな一間社流造の本殿がある。祭神は天照大神。古来、日本海を往く船人の信仰の篤い神社である。
境内にもう一社、竹野媛を祀る斎宮神社(摂社)が鎮座する。竹野媛は第九代開化天皇妃。在地の大県主由碁理の娘とされる。
斎宮に竹野媛のほか麻呂子親王(用明天皇皇子(聖徳太子と兄弟))ら御方とともに祀られている。
式内社は地域の歴史の語り部。竹野神社の南に新明山古墳がある。
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| 竹野神社の祭礼 |
〇テンキテンキ祭 竹野神社に伝わる祭礼に、竹野集落の子供6名によって演じられる「テンキテンキ」がある。テンキテンキと唱えながら踊る太鼓とササラを擦りながら演じるいわゆる風流の芸系に属する民俗芸能。例年10月に奉納される。
〇鬼祭 鬼祭は斎宮の祭神・麻呂子親王が退治した鬼を鎮める神事とされ、12月の丑の日に斎行される。祭は午後9時ころ中門裏手に宮衆が集合し、牧ノ谷集落の鬼神塚に向かい、鎮魂の趣を表すという。祭を見た者は3年以内に死ぬという禁忌が伝承されている。祭り当日、氏地の者は戸口を固く締め、物言いを慎み静かに過ごすという。宮衆も神事次第を物申さず、一部始終が不明の闇の中の祭というべきか。
鬼祭りは湧出宮(和伎神社)の祭りのような忌籠祭の類型中の神事かと思うが追儺や鬼遣或いは森廻り神事として行われる豊穣の祭が麻呂子親王の鬼退治に結びついたものか。見学することもかなわず闇の中。奇祭中の奇祭の所以であろう。 |
(新明山古墳)
新明山古墳(墳丘長190㍍)は、網野銚子山古墳(墳丘長201㍍)に次ぐ大型前方後円墳(写真上)。日本海岸最大級の古墳が丹後北海岸にある。
神明山古墳から滑石製盒(蓋付き容器)や家形埴輪等形象埴輪、高坏、器台等の広範な焼成品が発見されている。学術調査は行われていない。築造は4世紀後期~5世紀前期とする説がある。
開化天皇妃の竹野媛の父由碁理は倭国が神話から歴史時代に入る黎明期の人。丹後王国の諸豪族の一人だったのであろう。
神明山古墳は、倭国の日本海勢力が北九州、出雲を経て丹後に至った証。さらに丹後から若狭・近江、越前に至って継体天皇が誕生し、筑紫の豪族磐井を打ち大和政権の日本統一の明かりがみえ始めた古代史の一大記念碑であるだろう。
(蛭子山古墳)
竹野川を遡り、野田川との分水嶺を超え9㌖ほど南に往くとチリメン街道できこえる‘加悦谷’がひらけている。
加悦谷の東側を通る国道176号線脇に蛭子山古墳(前方後円墳。墳丘長145㍍。与謝郡与謝野町明石)がある。墳丘長は日本海岸一の網野銚子山古墳、新明山古墳に次ぐ丹後で3番目の規模。
蛭子山古墳後円部に埋葬施設が3基ある。うち1基の主体部から内行花文鏡(漢代)と直刀各1点を添えた刳抜式舟形石棺(写真参照)が出土し、同石棺周辺から直刀・剣身・鉄鏃・鉄斧の総計51点の武器等の副葬品が出土している。盗掘痕があったという。持ち去られた副葬品の仔細は不明。埋納された武器は驚くほどの数に上った可能性がある。古墳内部はさながら武器庫のような様相を呈していたと推される。
古墳の所在地は‘えびす山’と伝承され、埋葬施設に舟形石棺が用いられている。‘えびすさま’は福をもたらす神。
歓迎すべき神として崇められる存在。豊富な武器を保有した被葬者は渡来人を示唆していないか。舟形石棺もまた渡来人(舟に乗る海神)を示唆し、被葬者は倭人があこがれた王(豪族)ではなかったか。
古墳脇の谷を隔てた50㍍のところに作山古墳群(5基)がある。一帯は与謝野町立古墳公園として開放され、埴輪など往古の古墳の実装を見学できる。公園内に埴輪の展示施設(はにわ博物館。写真右参照)が併設され、丹後埴輪等が体系的に整理された良い施設。小さな町に大きな遺産。丹後王国の繁栄を伝えて余りある。
(埴輪など土器にこと寄せて)
日本の古墳等古代遺跡から土師器、須恵器が出土する。須恵器は土師器より焼成温度が高く、土師器のように野焼でなく登り窯を用い焼成し、用途は異なった。
朝鮮半島南部の伽耶(1~6世紀)では土師器、須恵器は同時並行してつくられてきた。加悦と伽耶は没交渉ではなかった。丹後の加悦の織物(織機)は朝鮮半島の伽耶から伝わった所産とされる。
須恵器は土師器より高度な焼成技術が求められ、丹後に伽耶由来の渡来人・土器人が居住し土師器、須恵器の両土器を同時に焼成した可能性は古墳の出土品からも否定できない。一般的に、土器の年代測定に前提(須恵器より土師器の方が古い)を設ける手法の善し悪しが問われるべきであろう。
丹後の土器は鉄器、玉類、織物等々と同様に内外に移出され王国は富国化し、巨大かつ多様な古墳を築造し得た源泉の一つと思われる。丹後域内に土器づくりに必要な粘土の土取り場の知見はあるが小規模。埴輪や土器の制作工房や新たな土取り場の発見に期待を寄せたい。
円墳や前方後円墳等墳墓は一定の定法に基づき築造されたと推される。しかし、県主、国造、親王、天皇等々の地位に対応する墳墓の一般的な造営基準はなくまた、土木技術の進化や流行等によってその形状や規模は一様ではないと考えられる。
また古墳時代の墳墓は倭国で行われてきた墓制とだいぶ異なり、副葬品等を含め伽耶等朝鮮半島のそれと酷似している。さらに墳墓の設計・施工や副葬品等々の生産について、倭人がそれらの仕事を分担し古墳の築造はもとより埴輪や土師器、高坏等の須恵器、鎧等武器などの作製につき渡来人乃至その後継の技人に頼らず執行できたかどうか疑問は尽きない。沓・イヤリング等々物品のほとんどが伽耶等の朝鮮半島由来のものにみえるがどうなのか、よくわからない。
以上のとおり墳墓の築造等の実態を考えると、かなりの作事に渡来人乃至その後継が携わっていたと考えられる。倭人は土石の運搬や版築作業等々の人海戦術を要する作業分担のほか何を分担していたのか等々、渡来人及びその後裔と倭人との労働分担の実相つき解明が求められる。
丹後に職能分担を基に後年(6世紀に)整った‘部’のような集団が組織され、族長等はもとより様々の技人が丹後に住みなしたと考えられる。その族長や技人こそ伽耶の安羅(国)から丹後に入った渡来人ではなかったか。応神天皇のころ大和に入った渡来人・東漢氏に先行して同族の渡来人が丹後に渡来していたと考えるがどうだか。
日本海ハイウエー(対馬海流)に乗ると朝鮮半島、特に伽耶と丹後は近い。池(瀬戸内海)を漕ぎ往く必要もない。先史から様々の遺物が日本海沿岸から出土している。
(式内社・大虫神社)
作山古墳群の南東1.8㌖のところに延喜式内社(明神大社)の大虫神社(与謝郡与謝野町字温江)が鎮座する。大江山山麓にあって、小虫神社(明神大社)とともに二度の火災を経て現在地に落ち着いた由である。従四位下の高い社格の神社は加悦谷の古い歴史をにおわせる。単なる農業神ではなさそうだ。
社地は加悦谷の好風が移ろう日当たりの良いところにある。丹後王国の都もこの辺りの丘に設けられたと思ってもみる。
古墳時代、雄略天皇に殺されそうになった御名・弘計尊(後の第23代顕宗天皇)と弟の御名億計尊(後の第24代仁賢天皇)が丹波余謝に身を隠した記事が日本書紀にみえる。親王たちが身を寄せるほどの豪族が加悦谷辺にいたのだろう。 |
間人集落の風景-京丹後市丹後町竹野-
竹野川河口から西方に後ヶ浜海岸がのびる。行者ヶ岩が海岸の中ほどにあって砂洲を生み、その向こうに間人集落がみえる。
間人は冬季のカニ、夏季の海水浴・浜歩き、釣りや立岩めぐりなど観光資源が豊富なところだ。
近年、竹野川河口部の整備が進み、アウトドア-施設や「道の駅てんきてんき丹後」の開設、竹野遺跡の整備など周辺集落との一体的な開発が進み、間人に訪れる人も多い。住居や公共施設は海抜20㍍ほどの海成段丘上に軒を連ねる。神社が多いのもこの町の特色。
間人の漁業の歴史は古い。集落の西・城島(周囲4㌖。)に先史時代の漁具の知見があるという。地磯が続く島は公園化され釣りや散策を楽しむ人も多いところ。
間人の漁民は、江戸時代には朝鮮近海や五島列島に出かけ操業し、カレイの延縄漁も行われていた。近年は沿岸漁業を主とし船も少なくなったという。日本海のカニの漁獲が減りつつある今、間人カニは幻のカニになりつつあるようだ。
険しい丘上の集落は湾への移動に困難を伴う。
平成9(1997)年11月、深い谷底のような海面に間人港大橋(大間橋)が完成した。難所に架かる斜張橋(大間橋)が輝いてみえる。橋は主桁から徐々に左右に橋梁を延ばし施工するディビダークカンチレバー工法によって架けられた。丹後の名橋の一つであろう。
間人の竹野川河口に周囲1㌖、高さ20㍍の立岩がある。柱状節理をなす一枚岩はマグマの冷え固まった1500万年の地球の記憶が詰まった島。鬼を岩に封じ込めた伝説がある名所。
立岩の近くの海岸に第31代用明天皇の皇后・穴穂部間人皇女の立像があ る。皇后の母方の蘇我氏と物部氏との争乱を避け当地に逃れた皇后は、都に戻る(退座する)際、間人の名を贈ったという。住民は恐れ多いので皇后が退座された意味を込め間人をタイザに読みかえたという地名譚がある一方、記紀に記録がなく地名譚を疑問視するムキもある。
しかし意味もなく地名譚が生じたとも考え難く、皇后は蘇我氏所縁の間人に身を隠した可能性も払拭できない。つまり皇后の外戚蘇我氏(渡来人説あり)は外交を所掌した大和朝廷の権臣。蘇我氏を支えた東漢氏(伽耶の安羅国出自)との関係が指摘され、間人にはじめ漢氏が率いる土師器、武器等の生産集団が存在しその後、蘇我氏の部となり、蘇我氏出自の穴穂部皇后の入内によって皇后の名代に組替えられたと考えれば地名譚の現実性が増す。
一方、本居宣長は間人の呼称を土器人(ハシヒト=間人)に求めている。当地の4~5世紀の土器需要を考えれば古くから当地にハチ(鉢)を作る渡来人が住みなし後年、蘇我氏の部に移行したと考えれば納得できる。
一方、地名は易々と変化するものではない。6世紀以前から間人はタイザであった可能性もある。
丹後半島の海岸線を往くと海景の美しさとともに櫛のように海浜に突き出た海成段丘の景に目が向くであろう(写真参照)。段丘は細く低く延々と経ヶ岬までつづいている(写真上)。往古、日本海を往く船人は当地辺まで漕ぎ来ると、海浜の段丘は堆砂の連なる丘のように見え、タイザの地名として定着していたのではないかと思う。
間人は巨椋池の東一口の‘一口’と同様、難読中の難読地名のひとつであろう。
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網野から久美浜まで
間人を出て国道178号線を往き砂方、三津、掛津、小浜など海浜の集落を経て丹後半島の西端の町久美浜まで約7 ㌖ある。網野の浜詰から久美浜の湊宮まで、緩やかに絞った弓月は兵庫県境で尽きる。
網野の風景
網野は海と織物の町。
縄文、弥生の昔から海浜、離湖周辺に生活痕を残し、古墳時代になると201㍍に及ぶ日本海側第一の巨大前方後円墳
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| 島児神社 |
が築造され、丹後網野の繁栄は極点に達したことであろう。網野人は浦島太郎(浦島子)伝説は網野のそれと唱えてやまない。浦島太郎を祭神とする神社が浅茂川漁港辺(島児神社)や網野町網野に2社(網野神社、六社神社)ある。
律令時代には旺盛な生糸需要に支えられ調物として峰山、加悦谷のそれとともに都に運ばれ、或いは朝鮮半島向けの交易品となり丹後は富国化したことであろう。そのような網野の前史が藩政期に始まったチリメン機業をはぐくみ櫛比の町・網野の繁栄をいまに伝えている。
鳴き砂の琴引浜、八丁浜、五色浜などの名勝が東西に並び、離湖の光風が観光客を誘う。
離湖は左右の砂嘴が延びやがて繋がり陸地に這い上がっ た湖。今、運河で八丁浜に連なる。
離湖の西にもう一つの潟湖・浅茂川湖が存在した。藩政期から明治の末年まで続いた干拓事業によって潟湖は消え、宅地をうみ水田や漁港が整備された。
今の浅茂川(福田川)流域の水田面の標高(海抜約2.5㍍以下の水田面を抽出)から往時の潟湖の大きさを想定すると、潟湖は少なくとも網野銚子山古墳の上流(南方)数百㍍まで広がる細長い大きな湖であったと考えられ、潟湖の湖面に銚子山古墳(海抜37㍍)の雄姿が映し出されていたことだろう。
平成12年10月1日、八丁浜で第20回全国豊かな海づくり大会が開かれた。天皇陛下御製の碑が八丁浜に立っている。浜は緩やかな弓月を描いて美しい。歩けは心地よく鳴く浜は赤子の遊園地。水無月祭(7月)が斎行される浜。沖で色さやかな高級魚あかあまだいが舞い踊る美しい浜。
| 我が妹が 丹後の海に 放ちゆく あかあまだいの 色さやかなり <御製> |
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久美浜湾の景観
久美浜(京丹後市久美浜町)は京都府最西端の町。人口の2割ほどが農林漁業にたずさわる。
久美浜湾の牡蠣、コノシロ寿司など海の幸やメロン、スイカなどの特産物を求め入込む観光客が多い町である。
北九州をたった先人は日本海岸の出雲を経て網野・竹野を経てさらに東に向かう途中、久美浜に古代中国貨幣、石器・鏃などの遺物を残している。幾度も幾度も文化の波が海の道を往き久美浜に達した証。先史・縄文・弥生・古墳時代の海の道は西から東に文化の結晶を伝える道だった。
久美浜湾は京都府北海岸最大の潟湖の一つ。運河で日本海につながる。天橋立に似た小天橋は海水浴、浜歩きで賑わうところだ。
浜辺でハマダイコンの花が揺れる風景は日本海の絶唱であろう。なにもない砂浜の波の音のかそけさがまた良く、折々に久美浜を訪れる人もいるだろう。
久美浜の魅力は海ばかりか立派な都市景観を持つひらけた町にある。久美浜は藩政期に代官所が置かれ、丹後北海岸など一帯の行政機関のハブをなす町だった。そのよすがと気品がただよう街歩きもまた良い。観光客が絶えないのもこの町のもう一つの顔と言えそうだ。-令和8年5月- |
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