巨椋池(おぐらいけ)−久世郡久御山町− |
巨椋の 入江とよむなり 射目人の 伏見が田井に 雁渡るらし <万葉集> |
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一口村道標 |
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巨椋池(写真中央、昭和7年) |
京都府の南部に「巨椋池」という池があった。昭和16年、洛南から忽然と消えた池は東西4キロ、南北3キロ、周囲16キロもある池だった。そこは蓮を愛で夕照を観じる景勝地だった。入り込んだ不整形な湖岸の入江から雁が飛び立つ光景は万葉の時代から伝えられた巨椋池の好風であった。のみならず流域の大河が流れ込む巨椋池は、そこに受け入れた大水をたくわえ、洪水を徐々に排出する遊水地としての機能を果たし、下流域の水害を防御したばかりか、筏に組まれて宇治川に流された田上山の良材は巨椋池に貯められ、こんどは池を出て木津川を遡り、木津から奈良山を越え藤原京に或いは平城京に運ばれた。一休禅師が一休寺から大徳寺に通う道すがらそこに棹を曳き洛中に向かう船路も巨椋池であった。
昭和16年、食糧増産の要請は8年の歳月を経て巨椋池を田地にかえた。湿田をなし稲作は半作にもならず飯米すら得られない農家もあったという。いま当地に、昔日の巨椋池をしのぶよすがは何もない。わずかに一口村(いもあらいむら。今の久御山町西一口)のはずれに「淀川渡船所」址の石碑がある。渡船は戦後も運行されたが昭和28年の淀川堤防の決壊を最後に断絶。道路端の叢によすがを残すのみである。道路を東に進むと、東一口の前川堤に沿って集落がひらけている。巨椋池の漁業基地として栄えたところだ。集落の大池神社の境内に‘淀町 鮒庫’‘京都 鮒定’‘伏見 鮒新’‘東一口 鮒重’・・・等々川魚商が名を列ねる寄進碑が建っている。巨椋池漁業の繁栄ぶりがうかがえる。櫓をきしませて漁船fが行交い、集落内の道路端はフナやコイ、タナゴ、モロコ、貝などを商う人々で賑わったことであろう。時を経ていま前川堤は桜の名所としてきこえるようになった。シーズンには花見客で賑わうところである。
巨椋池は昔、木津川、宇治川、桂川の三川が流入する池だった。池の西方、一口(いもあらい)が唯一の出口だった。そんな池の構造と「イミ(忌)アライ」という流水の出口付近の通称が重なって「一口」を「いもあらい」と読ませる難解、難読の地名が生まれたといわれる。一口村は町村合併によって名を消したが、東一口、西一口の地区名として今も一口村は生きている。
巨椋池は東西に走る地溝の陥没地にできた湖沼。三川から流入する土砂によって池はしだいに浅くなり、水害や湿田から周辺地の農作物の収量があがらなくなるなどして、巨椋池は近世以来、幾たびか改修が進められてきた。
征明の意を決し名護屋に兵を進めた豊臣秀吉は大坂に戻ると伏見城の普請に着手し、山城の淀城をこわしはじめる。そこに横たわる巨椋池。文禄3(1594)年、秀吉は宇治川、木津川(泉川)の付け替えをはじめ、巨椋池から両川を分離することに成功する。巨椋池の北に宇治川を迂回させ、木津川を南に迂回させることにより池から両川を分離し、伏見城の戦略機能を強化するとともに、周辺農地の乾田化を進めたのである。慶長9(1604)年には徳川家康の手によって桂川の付け替えが行なわれた。こうして三川は巨椋池から完全に分離されたのである。さらに明治元(1868)年に木津川の流路を南に下げ、
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淀の水車(淀川改修前) |
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淀川を航行する蒸気船
(電車開通後も曳舟として終戦まで活躍) |
男山八幡下で淀川との合流点をつくった。以来、淀川改修は着実に進められ、今日の京阪神の繁栄の基礎が確立した。
釋超空は「倭をぐな」で小椋池(巨椋池)を詠じた。京から大坂に下る淀川の舟運はすでになく、京阪電車の車窓からの眺めのようにも思われる。あるいは先の戦中戦後のころ、一部未干拓の巨椋池に感じて、脳裏にしまわれた過書船(三十石船)を追憶し、流れにまかせ岸辺の残影を映じたものかもしれない。
小椋池 淀八幡過ぎ しづかなる 雨しみとほる橋本の壁
〈釋超空〉 |
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昭和28年9月25日、近畿地方は、13号台風によって大洪水に見舞われた。この川だけは安全とされた磐石のはずだった淀川が本川、支川の流量が同時にピークに達するという未曾有の現象によって危機的状況に陥り、大阪市市民は恐怖に怯えた。上流部で堤防が決壊し、また宇治川上流の琵琶湖洗堰の洪水調整機能が有効に機能し、大阪市など下流部の大惨時は免れた。計画高水流量の設定水準の在り方など治水に多くの課題を残した水害だった。その際、破堤によって洪水を飲み込んだ巨椋池が忽然と現れた。東一口の大池神社の境内に巨椋池石碑が「巨椋池土地改良区」によって建立された。昭和28年の13号台風水害の復旧記念碑とも言うべきものであり、堤防決壊時の巨椋池の水位が碑の上部に合わせてある。前川堤や巨椋池干拓地を歩いてみるのもよいだろう。−平成21年3月− |
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