和歌山
もう一つの高野(慈尊院)−伊都郡九度山町−
慈尊院の板碑 おまつ、おふり、おひさ、お松、おつる・・・おびただしい女性の名が刻まれた板碑(写真左)が早春の淡い光りを浴びている。3枚、4枚・・・朽ちてわずかに碑面にのこされた名の中央に南無阿弥陀仏の名号が刻まれ、碑の上部に薬研彫りでキリーク(阿弥陀)、サク(勢至)、サ(観音)の三尊種子が円相に刻まれている。それらは江戸時代に念仏結衆によって逆修の願いから造立された板碑群であり、境内の一角にある。
 この寺こそ「女人高野」とも呼ばれる弘法大師縁の慈尊院である。高野の政所の称もある寺である。天長10(833)年、大師の母堂が大師を訪ねて讃岐の屏風ヶ浦から当地へ来られ、そこで老死した母堂のために創立した伽藍と伝えられる。大師は女人禁制の霊山を避け、ここに堂宇を設け、月に九度高野山から慈尊院まで昇降され母堂に対面された由縁から九度山の名が起こり、また女人の参拝を許したところから女人高野の名称が生まれたようである。板碑はそうした当寺と女性の縁から講中の女子衆が逆修を願ったものであろう。
 北門前の左手に卒塔婆形の板碑に下乗の文字を刻み、上部にア(胎蔵界大日)の種子を刻んだ下乗石がある。紀伊名所図会に保延2(1136)年の建立と紹介された県下最古の下乗石とみられるものである。

 慈尊院の霊廟(弥勒堂。写真左下)は方3間の宝形造りで桧皮葺、承和2(835)年、高野山二世真燃僧正の建立と伝えられる。鎌倉、室町期に修理が行われている。多宝塔(写真右下)は3間半4面2層閣で、最初弘法大師によって建立されたが火災等によって消亡し、天文年間(16世紀中葉)に再建されている。−平成20年3月−
弥勒堂 多宝塔
境内の石仏 門前の下乗石