京都
丹後の王国−与謝郡与謝野町、京丹後市丹後町、同網野町等−
 京都府の北部に丹後半島がある。鳥取との府県境から東に海岸線をたどると久美浜、網野の街が連なり、やがて日本海に突き出た半島の最北端・経ヶ岬に至る。
 半島の東方は若狭湾。湾は宮津、舞鶴の街を抱くようにして日本海に口を開いている。
 丹後半島とその基部を含む京都府北部地域は古代の
作山古墳群(与謝野町)
丹波国。東南端は都と接する広大な国だった。和銅6(713)年、丹波は2分割され、丹後半島を含む京都北部の約半分が丹後国となった。
 丹後は広大な平野も大河もない。日本海岸の平凡な一地域であるはずの丹後。しかし、そのささやかな地域に古墳時代前期に築造されたと考えらる前方後円墳や円墳、方墳などの古墳がひしめいている。うち全長100メートルを超える日本有数の前方後円墳が6基も所在する。

 対馬海流にのると朝鮮半島から丹後への航海は容易い。当時の航海技術をもってしても織機や鉄地金の搬送もそれほど困難とはみられない。併せこの地方の気候風土が絹織物の生産適地であったことが富を産み巨大古墳築造の根源の一つとなったことは言うまでもないだろう。
 我が国に稲作が定着すると米の生産と分配の過程において階級社会が生じた。生活様式の変化や人口が増えると鉄製品や絹織物の需要が加速する。応神記にみるように倭国社会は漢人の渡来と彼らがもたらした知識や技術によって一層、豊かになったことであろう。
 丹後は倭の五王のころに巨大古墳が築造されたとみられるが、弥生墓の副葬品等から見て伽耶など朝鮮諸国との交易は応神朝よりかなり前から行われ、朝鮮半島からもたらされた鉄ていから武器や織機などを製造、販売したと推される。桑を植え蚕を飼い、織機により編まれた織物は旺盛な需要に支えられ丹後の富国化は大いに進んだに違いない。

 丹後の昔を想うと、神話時代から歴史時代に入る日本の草創期において、古事記、丹後風土記、丹後旧事記などにヤマト王権の大王と丹後在地の豪族子女との婚姻の記事がみえる。丹後の経済力は王権の維持、発展ばかりかヤマトと丹後を結びつけた伴造や、在地の族長たる国造、県主を育て、巨大古墳の被葬者となって眠っている豪族もいるだろう。
 丹波大県主田基理の娘・竹野比売は歴史時代の黎明期に在位した第9代開化天皇の皇后となった。第11代垂仁天皇の皇妃竹野姫もまた丹後に出自する。第12代景行天皇、第13代成務天皇の外祖・丹後国熊野郡川上一族や、第15代応神天皇の外祖・息長宿祢一族も丹後に住まいした。
 ヤマト王権の内訌から後の第21代雄略天皇が第17代履中天皇の市辺押磐皇子を蚊屋野に殺し(御陵は滋賀県東近江市市辺町に所在。写真右上)、自らが天皇についた折、市辺押磐の2皇子(第23代顕宗天皇、第24代仁賢天皇)が一時、丹波の豪族(丹波余社(与謝)五十日真黒人)に身を寄せている。聖徳太子の生母で第31代用明天皇の皇妃穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后は丹後・間人に縁がある(写真右下は間人海岸に建つ聖徳太子母子像)。
 丹後の歴史は古く、機織織物の伝統は加悦谷や網野、峰山など広く丹後に受け継がれ絹織物中、丹後ちりめんは今も選択的な光を放っている(もう一つのシルクロード参照)。

 農業生産力に比べ、不釣り合いな巨大古墳の存在はいかにも丹後の秘められた歴史を感じさせるのに十分である。国道176号線を行き与謝峠から見下ろすと野田川流域の段丘に開けた加悦谷(与謝野町加悦)が展望できる。その右岸地に築造された前方後円墳・蛭子山1号古墳は(えびすやまいちごうこふん。全長145メートル)や作山1号古墳の存在は、野田川流域の農産物の生産高のみから到底、想定できない規模と舶来鏡など副葬品の豪華さがある。加えて両古墳とも石棺に花崗岩を使用。蛭子山1号古墳のそれは舟形に整形され、この種の部材を用いた石棺は畿内でもほとんど作例がない立派なものだ。
 丹後町に鎮座する延喜式内社・竹野神社(大社。京丹
神明山古墳
後市丹後町)の裏山に全長190メートルの神明山古墳(前方後円墳。写真右)がある。墳丘から日本海を望むと、眼下に間人(たいざ)漁港地先の立岩が見える。古墳は依遅ヶ尾山(標高540メートル。写真上)の西麓尾根の先端部に築造され、その西に竹野川が流れている。野田川同様に竹野川の流域面積は狭く、到底、大古墳を支え得る生産力は想像すらできないところだ。
 さらに、京丹後市網野町には日本海岸最大級の全長198メートルの銚子山古墳がある(前方後円墳)。全長約20メートルほどの小さなニゴレ古墳(不整形墳)からは短冑など豊富な武器が出土している。目を見張るような巨大な古墳や主体部を埴輪で飾り、埋納された豪華な副葬品等をどのように解釈すればよいのか。私たちはそれらの古墳を築造した富が単に農耕によって生じたものでないことを容易に感じ取ることができる。
 富の根源につき諸説ある。伽耶(かや)など朝鮮半島諸国との交易による鉄ていの移入・販売及び鉄ていを部材にした鉄剣や甲冑等の武器の製造・販売を行う鍛冶技術(遠處遺跡群鍛冶工房跡。現地案内板の写真(左)参照)やそれを商う商人の存在並びに鉄製用具を用い製造された織機を使用し機を織る者や桑の生産に従事する者など丹後は多種多様な商工業の一大都市を成していたのではないか。その財力と鉄製兵器の製造能力はヤマト王権が注目するほどの勢いを示していたに違いない。
 力を蓄えた丹後国の豪族とそれらをけん引する中央豪族が在地の人々を「部(べ)」とし統率し、ヤマト王権に奉仕する支配の構図ができたのだろう。中央豪族は伴造としてヤマト王権を支え、部は地方組織として伴造の統率のもと王権を支えたのである。丹後においてはそのような地方―中央を通じた支配構造が5世紀以前から存在し、在地の国造や県主たる族長はヤマト王権との強い絆を背景に巨大古墳を造営し埋葬されたのであろうか。5世紀初頭に我が国屈指のもう一つの王国が丹後に存在したのだ。
 墳墓の主体部には国造、県主或いは伴造が眠っていることだって考えられるだろう。伴造は皆が連となって大王と寝食をともにするわけではない。その支配地に葬られても不自然ではあるまい。
 日本海を行き、出雲や越を往来する人々の目に商工業都市たる丹後の王墓は陽の光を受けて燦然と輝いていたことだろう。

 氏姓制度のもと、丹後の養蚕、鉄器を伴う古墳文化はその族長たる丹波直一族によって占められ与謝野峠を越え、由良川(写真右下)を遡上し流域の天田郡(福知山市等)や何鹿郡(綾部市等)などにも伝播したことであろう。私市円山古墳など中丹波の巨大古墳はそれら地域の国造や県主に就いたとみられる丹波直一族が葬られている可能性も否定できない。被葬者は土師、鍛冶、養蚕等々の在地工場長であるとともに部(べ)の族長として今日の役場的業務にもあたっていただろう。
由良川
市辺押磐皇子墓
 丹後に巨大古墳が築造された古墳時代前期ころは倭の五王たちが東アジアに雄飛した時代と重なる。当時、倭国は中国王朝の冊封下にあった。倭国が百済や高句麗など朝鮮半島諸国を抑え極東の覇権の獲得を企図して相当誇張した上表を携えて中国に朝貢したことが雄略記などから分る。しかし、結局、倭王の狙いが叶ったことはなく、冠爵の扱いはいつも高句麗、百済の下に置かれていた。五王中の最後の倭王・雄略天皇は、以降中国王朝に朝貢団を遣ることはなかった。
 我が国は中国から僻遠かつ植民地化された経験がなく朝鮮諸国ほど中国文化が浸透していなかったことや地理的に軍事的重要性が低いとみなされたのだろう。日本の劣位が露になりかつ、軍事的需要が低下すると鉄てい、武具等の輸出入需要が低下し、丹後の半島との往来も少なくなり、丹後の産業も変質を余儀なくされたことだろう。
 後年、斉明天皇(白村江の戦)や豊臣秀吉(文禄・慶長の役)が大陸に兵を進めたのもそうした過去の悔しい記憶が大陸遠征の動機となったことも否定できない。しかし結局、日本はまたしても半島から叩き出されてしまうのである。−平成22年7月−
竹野神社 穴穂部間人皇后
・聖徳太子母子像

穴穂部間人皇后のこと
 聖徳太子の生母は穴穂部間人(ハシヒト)。
 日本海に面した丹後半島のつけ根に間人(京都府京丹後市丹後町間人)と呼ぶところがある。6世紀ころ都の戦乱を避け当地に避難していた穴穂部間人母子が都に戻る際、当地に間人の名を与えたが恐れ多いので間人を「タイザ」(退座の意)と呼ぶようになったという。地名伝説の一つと思うが果たしてどうであろうか。
 穴穂部間人は用明天皇の皇后で欽明天皇の第3皇女。間人は同皇后の名代であったのだろう。出生地乃至避難地であったとは考えづらい。皇后の母は蘇我稲目の娘で小姉君。小姉君の生母は不明である。
 古代の日本史にすい星のごと現れた蘇我氏。蘇我氏の本拠は奈良県高市郡蘇我(現橿原市蘇我町)の説があるが稲目以前の仔細はよくわからない。尊卑文脈など祖先の系図に孝元天皇、竹内宿祢等が名を連ね…韓子、高麗、稲目と続く。蘇我氏は大和朝廷の財務、対外関係を掌り、崇仏派として勢力をなした氏族。系図や所管業務からみて東漢氏などと同じ百済系渡来人と推するが9世紀に編まれた新撰姓氏録によると皇別に分類され、諸蕃ではない。蘇我氏は時代を経て倭国化し、家系さえ変える力を得たものか。
 用明皇后の名代が所縁もなく間人に設けられたとは考えにくい。否、その母である小姉君の母(皇后の伯母)こそ間人出身の女性(采女)ではなかったか。間人は蘇我氏の部(ベ)として設置され、織物や鉄器或いは人員(舎人、采女)を供給していたと考えられないものか。小姉君の母は間人から稲目邸に入った采女ではなかったかと思う。
 而して小姉君の娘(稲目の子)が用明天皇の皇后になると蘇我氏は間人部を穴穂部の一つに組み替え名代としたのではなかろうか。蘇我氏と間人の族長が同じ百済系渡来人であったとすると蘇我氏が間人を「部」とし、時を経て名代としたことに大きな矛盾はないと思うのだが、どうだか。在地の権力者と蘇我氏がともに渡来人という共存意識が両者を接近させ、蘇我氏と否、ヤマト王権との蜜月時代をうみまた、間人とヤマト王権との紐も一層強固なものとなったのだろうか。
 天智9(670)年、庚午年籍の施行によってそれが解かれるまで部民制は本邦の支配構造の要であった。地方と中央を結ぶ太い糸であった。部民制は国家権力や婚姻、税や官衙の運営、食糧や諸物の生産等々に至るまで人々を縛りつけた。
 丹後・丹波路を行くとひっそりとした寒村から時代時代の人々の泣き笑いが聞こえてくるような錯覚を覚える。−平成22年7月−